下級武士から東京トップに上り詰めた男「後藤新平」 関東大震災から東京を復興させた誇り高き精神とは

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下級武士から東京トップに上り詰めた男「後藤新平」 関東大震災から東京を復興させた誇り高き精神とは

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1923年に発生した関東大震災で壊滅した東京。その復興に力を入れた人物、後藤新平をご存じでしょうか。『後藤新平 大震災と帝都復興』(越澤明、筑摩書房)について、ブログ「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」管理人の山下ゆ さんが紹介します。

1857年、岩手県奥州市生まれ

 1923(大正12)年9月1日、南関東を巨大な地震が襲いました。関東大震災です。10万人以上の死者・行方不明者を出した大災害ですが、このとき「理想的帝都建設の為の絶好の機会なり」と述べた「不謹慎」な人物がいます。それが後藤新平です。

元内務相兼帝都復興院総裁、元逓信相、元外相、元台湾民政長官、初代満州鉄道総裁、初代東京放送局総裁を務めた後藤新平(画像:時事)



 後藤は震災当時、第2次山本権兵衛内閣において内務大臣に就くことを要請されていましたが、震災翌日の9月2日に第2次山本内閣が成立すると、帝都復興院を設立して自ら総裁という地位に就き(内務大臣と兼任)、東京の大改造を行おうとしたのです。

 後藤は台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)の総裁、逓信大臣、鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣、東京市市長などを歴任した人物ですが、今回紹介する越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』(筑摩書房)では、著者が都市計画や都市政策などを専門とする人物だということもあって、後藤の都市計画や都市政策、そして関東大震災後の東京の復興計画に特に光が当てられています。

 後藤は1857(安政4)年、現在の岩手県奥州市にある水沢で生まれています。当時の水沢は仙台藩一門・留守家が統治する土地であり、後藤の家はこの留守家に仕えていました。一族には江戸時代の医者・蘭(らん)学者として有名な高野長英もいます。

 しかし、戊辰(ぼしん)戦争後に仙台藩は厳しい処分を受け、後藤の前途は暗転します。その後、後藤は胆沢県の給仕から医学校へと進み、医者になりました。

 後藤の名が歴史の表舞台に出てくるのは、1882(明治15)年に板垣退助が岐阜で暴漢に襲われて負傷した事件です。他の医師が政府と対立する板垣の治療をちゅうちょするなかで、後藤が板垣の治療にあたりました。

 その後、後藤は内務省の衛生局に入り衛生局長まで出世しますが、相馬事件という旧大名家のお家騒動に巻き込まれて投獄されます。無罪になりましたが、後藤はそれまでの地位を失うことになります。

 ここで、後藤にとって飛躍のきっかけになったのが当時陸軍次官だった児玉源太郎との出会いです。児玉は日清戦争後の帰国兵の検疫を後藤に任せ、後藤は見事にそれをやり遂げました。この後、後藤は児玉とのコンビで大きな仕事を次々とこなしていきます。

台湾統治で手腕を発揮

 1898(明治31)年、児玉は台湾総督となります。それまで樺山資紀(すけのり)、桂太郎、乃木希典(まれすけ)という歴代総督が手こずっていた台湾統治ですが、児玉は後藤に民政局長という内政のトップを任せます。

 後藤は台湾で問題になっていたアヘンについて、強引に禁止するのではなく、専売にして徐々に禁止していく政策を打ち出しました。また、台湾の衛生状態を改善し、社会資本の整備を進めていきます。

 加えて、本書が注目しているのは台北の都市計画です。台北を訪ねると、広い道路や統一的なファサードに感心しますが、これは後藤が城壁を撤去して大通りを整備するとともに、中心部の建築物に強い規制をかけた為です。

 日露戦争後、児玉は後藤に南満州鉄道株式会社(満鉄)の総裁のポストを託します。後藤は多くの人材を抜てきして満鉄の経営にあたるとともに、ロシアと協調して満鉄を国際鉄道にし、その価値を引き上げようとしました。

 また、満鉄はその付属地の都市経営も行いました。大連や長春の都市づくりにおいて、後藤は大胆な計画と実行力でスケールの大きな市街をつくっていったのです。

 こうして植民地で都市づくりを経験した後藤は、日本の都市改造にも関心を持ち、情熱をささげるようになります。

1919(大正8)年に発行された東京の地図(画像:国土地理院)



 寺内正毅内閣で内務大臣となった後藤は都市計画法の制定へと動き、1920(大正9)年には内務大臣よりは格下の東京市長になり、東京の都市改造を試みます。

 1921年に発表された東京市政要綱では、東京の都市インフラの整備に7億5750万円が必要だという「八億円計画」と呼ばれるものを打ち出しました。これは東京市の年間予算が1億数千万円、国家予算が約15億円という中で打ち出された数字であり、当然ながらそのまま実現することはありませんでした。

 それでも後藤は東京の道路の舗装を進め、また東京市政調査会を設けて、アメリカからのちにアメリカ政治学会会長、アメリカ歴史学会会長を歴任するチャールズ・ビアードを招聘(しょうへい)してアドバイスを受けるなど、東京の改造に情熱を燃やします。

東京にもたらされた後藤の遺産

 そんなときに関東大震災(1923年))が発生します。冒頭で述べたように、後藤はこれこそ東京改造の絶好の機会だとして、壊滅的な被害を受けた東京の復興へと動き出します。

 最初に後藤が打ち上げた予算は30億円という国家予算の2年分という数字で(その後さらに後藤は40億円と言い出す)、被災地域の土地を公債を発行して買収し、区画整理を行うという大胆なものでした。

 計画には、東京駅周辺の幹線道路の拡幅と整備も盛り込まれていました。2014年に開通した虎ノ門から新橋に至る環状2号線の区間は、連合国軍総司令部(GHQ)が計画したものとして「マッカーサー道路」とも呼ばれていましたが(これには根拠がない)、実は最初に計画されたのはこの復興計画のときで、著者は「後藤新平道路」のひとつだとしています。

 しかし現状を考えて予算は10億円となり、さらに大蔵省(現・財務省)との折衝で約7億円に、さらに帝国議会で4億6843万円へと切り詰められていきます。後藤の計画は大幅に縮小せざるを得なくなりました。

 それでも後藤の復興計画と、その後の東京市による事業によって、

・昭和通り
・大正通り(現・靖国通り)
・浅草通り
・八重洲通り
・日比谷通り

といった幹線道路が整備され、隅田川六橋(永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋、相生橋)がつくられました。

 また、隅田公園、錦糸公園、浜町公園の三大公園のほかに52の小公園がつくられました。隅田公園はリバーサイドパークとして計画され、道路と公園が一体となった当時としては新しいスタイルになっています。

 さらに、後藤の腹心の部下でもあった永田秀次郎東京市長によって区画整理事業が行われ、神田駿河台、神田淡路町・須田町、浅草雷門、築地などが新しい町並みに生まれ変わりました。

越澤明『後藤新平 大震災と帝都復興』(画像:筑摩書房)



 後藤の壮大な東京改造の計画のうち、実現したのは一部分ですが、それでも後藤の遺産は東京という都市に大きな変化をもたらしたのです。

 本書は、後藤のことをやや褒めすぎている感もあり、欠点(演説が致命的に下手だったなど)を含めて後藤の人物について知りたいのであれば、同じタイトルで、主に外交家としての後藤を中心に論じた北岡伸一『後藤新平』(中公新書)のほうが面白いかもしれません。しかし、後藤が東京という都市に与えた影響という点を知る上で、本書はさまざまなことを教えてくれます。

 本書を通して、後藤が夢見た東京の姿を確認するのも面白いと思います。

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