98年前の悲劇――関東大震災で消え去った幻の「鍋島本邸」をご存じか

今年も間もなく防災の日(9月1日)がやってきます。それを機に、関東大震災が残した爪痕について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。


永田町も襲った大震災

 明治建築界の大物は欧米の思想を学んでいたこともあり、日本の伝統建築は軽視されがちでした。

 しかし伊東は日本の伝統である寺院建築を再評価し、コンクリート工法など新たな技術と融合させることも試みました。和風でありながら、どこか西洋のような雰囲気を感じさせる震災記念堂は、そうした伊東の思想を詰め込んだ建築物といえます。

 陸軍被服廠跡地は下町に所在していたこともあり、関東大震災の被災状況は下町を中心に語られがちです。しかし、山手側でも大きな被害を出しています。

 関東大震災は東京都千代田区永田町にも容赦なく襲いかかりました。現在、首相公邸・官邸が立地する場所には、鍋島家の本邸がありました。鍋島家は佐賀藩最後の藩主であり、明治以降は侯爵として活躍しています。

1909(明治42)年測図の地図(左)と現在。鍋島邸の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)




 震災当時、鍋島家の当主だった鍋島直映(なおみつ)はイギリス留学を経験し、教養人として知られていました。また、父・直大(なおひろ)もヨーロッパへの留学経験があり、明治天皇や政府内からの厚い信頼を寄せられていました。

 明治天皇から信頼されていた直大は、1870(明治3)年に永田町の屋敷地を下賜(かし)されました。そして1891年、同地に和風の日本館が、翌年には西洋館が落成しています。

 鍋島本邸の設計を担当したのは佐賀藩出身の建築家・坂本復経(またつね)です。坂本は工部省(現・国土交通省)で建築を担当し、その後に清水満之助商店(現・清水建設)で技術者として勤務しました。

 その経験を買われて鍋島本邸の設計を依頼されたわけですが、坂本は建設中に死去。そのため、唐津藩出身の辰野金吾が監督となって工事は進められました。

 辰野は、後に東京駅や日本銀行本店などを手がけることになる明治を代表する建築家です。優れた腕と抜きんでた建築知識を有していたので、明治政府からも重宝される存在でした。

 そのため、工事期間中に政府からヨーロッパ視察を命じられます。一時的に現場から離れることになったため、監督は片山東熊(とうくま)が代行することになりました。

震災後、渋谷松濤に移った鍋島本邸


【2013年撮影】関東大震災の秋季慰霊大法要

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