自然あふれる伊豆七島 しかし「国立公園化」の道は険しく、戦時下でも行われていた!
2021年8月16日
知る!TOKYO伊豆大島や新島、三宅島などから成る伊豆七島。そんな伊豆七島が国立公園となるまでの道のりについて、離島ライターの大島とおるさんが解説します。
国立公園になるメリット
東京府による整備が行われていた伊豆七島では1941(昭和16)年、国立公園指定へ向けて動き出します。国立公園となると、国(現在は環境省)が管理を行い、手厚い保護を受けられ、観光客を集める要素になります。
伊豆七島は秩父や志摩などとともに1942年、国立公園の候補地とされます。翌1943年には、東京都長官に対して厚生省(現在の厚生労働省)から「天城大島地区」を国立公園候補地とするため、意見と調査を求めるよう通達されています。
「天城」とあるように、この時点で伊豆七島は伊豆半島とセットで国立公園とすることが構想されていたようです。背景には、伊豆半島各所と伊豆七島を結ぶ航路が今より盛んで、関係が密接だったからと考えられます。

これを受けて調査が実施され、東京都長官は1944年2月に厚生省に回答を送ります。
当時の年表を見ると、東京では1月に初の疎開命令が出て建物の強制取り壊しを開始。2月にはマーシャル諸島占領、トラック島空襲と戦局が悪化。3月には決戦非常措置要綱により、待合茶屋、バー、料亭が閉鎖され、夕刊を廃止と社会情勢は混乱を極めています。
都内では空地利用総本部が設置され、空地の農園化が始まり、不忍池が早速、水田として整備されるなど、戦争一色の状況です。まさに日本全土が非常事態のなかで、国立公園化のための陳情や調査という、平和なことが行われているのは少々不思議です。
ブームになった公園整備
しかし事態は変わります。東京都長官からの回答を受けて、厚生省では伊豆七島の国立公園化指定の手続きを進めていたものの、戦局の悪化で中断となります。
ここまで中断しなかったのは、戦時下にあっても国立公園指定の意欲が強かったからでしょう。こうして終戦後、景勝地を観光資源にしようとする機運が盛り上がり、再び国立公園指定運動が全国各地で立ち上がりした。
これに対して厚生省は1946年、再び指定のための調査と通達を行っています。この時期、全国で「わが地域を国立公園に」という動きが激しくなったため、改めて調査検討からということになりました。

この調査検討は長く続きました。その間、1949年には国立公園法の規定を利用して、国定公園の指定が行えるようになります。都道府県では自然公園の整備が条例で盛んになり、東京都でも都立自然公園が設立されていきます。
当時、公園の整備は一種のブームになっており、国立公園の指定を要望する地域は全国で200か所あまりにも及んでいました。今の世界遺産候補地どころではなかったのです。
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