自然あふれる伊豆七島 しかし「国立公園化」の道は険しく、戦時下でも行われていた!

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自然あふれる伊豆七島 しかし「国立公園化」の道は険しく、戦時下でも行われていた!

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大島とおる

離島ライター

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伊豆大島や新島、三宅島などから成る伊豆七島。そんな伊豆七島が国立公園となるまでの道のりについて、離島ライターの大島とおるさんが解説します。

1936年に国立公園になった伊豆七島

 東京都に属する伊豆七島は富士箱根伊豆国立公園、小笠原諸島は小笠原国立公園として整備されています。

 国立公園の制定は、1931(昭和6)年の国立公園法の制定から始まりますが、その後、次のような時系列で現在に至っています。

・1936年:富士箱根国立公園指定
・1955年:伊豆半島地域を編入し富士箱根伊豆国立公園に名称を変更。同年、伊豆七島国定公園を指定
・1964年:伊豆七島国定公園を富士箱根伊豆国立公園に編入
・1974年:小笠原国立公園指定

伊豆七島の八丈島(画像:海上保安庁)



 伊豆七島が国定公園、のちに国立公園となったのは戦後になってからですが、この地域では戦前から行政による自然公園としての整備が行われてきました。

 当時の内務省は1932年、東京緑地計画協議会を制定。この協議会は首都圏の緑地計画を整備するために設立され、その後、首都圏の「景園地(現在の自然公園)」「行楽道路(現在の緑道)」の整備を進めていくことになります。

 これを受けて東京府では、東京府観光保勝委員会が制定され、府による自然公園の整備が始まります。そして国立公園の指定よりも早く、1936年に府内各地の景園地のひとつとして大島景園地が指定されています。

 こうして国と東京府で実施された自然公園の整備事業ですが、太平洋戦争中も続きます。

国立公園になるメリット

 東京府による整備が行われていた伊豆七島では1941(昭和16)年、国立公園指定へ向けて動き出します。国立公園となると、国(現在は環境省)が管理を行い、手厚い保護を受けられ、観光客を集める要素になります。

 伊豆七島は秩父や志摩などとともに1942年、国立公園の候補地とされます。翌1943年には、東京都長官に対して厚生省(現在の厚生労働省)から「天城大島地区」を国立公園候補地とするため、意見と調査を求めるよう通達されています。

「天城」とあるように、この時点で伊豆七島は伊豆半島とセットで国立公園とすることが構想されていたようです。背景には、伊豆半島各所と伊豆七島を結ぶ航路が今より盛んで、関係が密接だったからと考えられます。

伊豆半島・諸島エリアの富士箱根伊豆国立公園(画像:環境省)



 これを受けて調査が実施され、東京都長官は1944年2月に厚生省に回答を送ります。

 当時の年表を見ると、東京では1月に初の疎開命令が出て建物の強制取り壊しを開始。2月にはマーシャル諸島占領、トラック島空襲と戦局が悪化。3月には決戦非常措置要綱により、待合茶屋、バー、料亭が閉鎖され、夕刊を廃止と社会情勢は混乱を極めています。

 都内では空地利用総本部が設置され、空地の農園化が始まり、不忍池が早速、水田として整備されるなど、戦争一色の状況です。まさに日本全土が非常事態のなかで、国立公園化のための陳情や調査という、平和なことが行われているのは少々不思議です。

ブームになった公園整備

 しかし事態は変わります。東京都長官からの回答を受けて、厚生省では伊豆七島の国立公園化指定の手続きを進めていたものの、戦局の悪化で中断となります。

 ここまで中断しなかったのは、戦時下にあっても国立公園指定の意欲が強かったからでしょう。こうして終戦後、景勝地を観光資源にしようとする機運が盛り上がり、再び国立公園指定運動が全国各地で立ち上がりした。

 これに対して厚生省は1946年、再び指定のための調査と通達を行っています。この時期、全国で「わが地域を国立公園に」という動きが激しくなったため、改めて調査検討からということになりました。

利島(画像:海上保安庁)

 この調査検討は長く続きました。その間、1949年には国立公園法の規定を利用して、国定公園の指定が行えるようになります。都道府県では自然公園の整備が条例で盛んになり、東京都でも都立自然公園が設立されていきます。

 当時、公園の整備は一種のブームになっており、国立公園の指定を要望する地域は全国で200か所あまりにも及んでいました。今の世界遺産候補地どころではなかったのです。

国定公園から国立公園へ

 その後、伊豆七島は1955(昭和30)年、天城、伊豆半島と切り離して「伊豆七島国定公園」として指定されます。

 そして国定公園に指定された地域の多くが、国立公園への昇格を求める運動をすぐに始めます。そのなかでも伊豆七島は有力な候補で、1952年に早くも国立公園昇格への動きが始まります。

御蔵島(画像:海上保安庁)



 しかし、またひとつ問題がおきます。当時、防衛施設庁を通じて、御蔵島(伊豆諸島)を米軍の射爆場として整備できないかという打診があったため、国立公園昇格の審議はいったん中断したのです。

 一方、御蔵島は保護すべき自然の豊かな島であるとして、射爆場反対の陳情も相次ぎます。これに対して防衛施設庁は1964年、御蔵島は射爆場として不適当であり、候補地として除外することを決めます。

 こうして改めて審議が実施され、同年6月に伊豆七島国定公園の解除と、富士伊豆箱根国立公園の区域変更が決まります。

 そして、伊豆七島は富士伊豆箱根国立公園の一部となりました。このとき、伊豆箱根国立公園の名称は特に変更しないことが適当とされています。

 名称が変わらなかった理由は、すべてが富士火山帯に属する火山、半島、島だからという要素が強かったと言われています。こうして、晴れて国立公園となった伊豆七島は戦前にも増して観光地として栄えるようになったのです。

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