DaiGo発言を完全否定――渋沢栄一は「貧者の救済」こそ日本の発展につながると説いていた!
2021年8月13日
ライフ「ホームレスの命はどうでもいい」メンタリストのDaiGo氏の発言が世間の厳しい批判を受けています。しかし今から150年前、そのような考え方に敢然と立ち向かった民間人がいました。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
養育院を立ち上げた渋沢
渋沢は1872(明治5)年から養育院という施設の院長を務めてきました。養育院とは、生活困窮者や難病、身寄りのない高齢者、親を失った幼児などの面倒を見る施設です。
幕末期、徳川体制を支持する勢力と明治新政府を支持する勢力がぶつかり合い、日本各地で戦が起きました。そうした戦乱により親・兄弟を失った人々がいたのです。また、幕府が崩壊したことにより田畑を焼き尽くされたり家屋を失ったりした人もいます。
そうした人たちが路上にあふれてしまったため、渋沢は養育院を立ち上げたのです。養育院では生活保護や自立支援、病気療養といったさまざまな困窮者の救済にあたりました。

当時は明治維新後の混乱期だったこともあり、養育院に入所する人たちは後を絶ちませんでした。渋沢は入所者を受け入れるため、養育院を増設・拡張していきます。養育院を開設したばかりの頃、養育院は本郷にありました。拡張のために浅草、そして上野、神田、本所、大塚へと移転しました。
大塚に移転してからは、分院も開設。大塚の本院と新設された分院は役割分担を明確にし、分院では主に非行少年の更生を受け持ちました。
「努力をしたくてもできない人たちもいる」
その後、非行少年の社会復帰を手助けするために、井之頭公園内に井之頭学校を設立。当時の井之頭公園は御料地で、宮内省が所管する土地でした。庶民が軽々しく立ち入れるような場所ではありませんが、渋沢の非行少年を更生し、社会復帰させるための学校をつくりたいという気持ちが政府や皇室を動かしたのです。

渋沢は生活困窮者や身寄りのない高齢者、難病患者、非行少年を手厚く保護してきましたが、そうした渋沢の取り組みに反対を唱える政治家・実業家も少なくありませんでした。
彼らは「自分の怠惰によって生活が困窮したのだから、公金を使って手助けする必要はない」と口をそろえたのです。
渋沢はそうした意見に真っ向から反対します。渋沢は武蔵国の富農の家に生まれました。武士にひどい仕打ちを受けましたが、それなりに順風満帆に人生を歩んできました。もちろん、それは渋沢が努力した成果といえます。
しかし渋沢は自分の努力をひけらかすことなく、
「努力をしたくてもできない境遇の人たちもいる」
と訴えました。そのうえで、
「そうした境遇を改善することで、社会に活躍できる人材が増える。それは国家にとっても好ましいことであり、経済界にとってもプラスになる」
と財界を説得していったのです。
また、さらなる経済発展には「富の再分配こそが必要」とまで渋沢は断言しています。昨今、格差社会が大きな影を落とし、富の再分配を訴える人も増えてきました。
その一方で、貧困層に再分配することを無駄と断じる富裕層もいます。そうした再分配を嫌悪する富裕層に通底しているのは、「自分が納めた多額の税金を、なぜ貧困者に使われなければならないのか?」という不満です。
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