DaiGo騒動に非難集中 街のホームレスを「異質」と見なすノリの耐えられない軽さ

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DaiGo騒動に非難集中 街のホームレスを「異質」と見なすノリの耐えられない軽さ

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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「ホームレスの命はどうでもいい」「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」。メンタリストのDaiGo氏の発言が世間の厳しい批判を受けています。弱者や異質なものを排除する思想はしかし、彼固有のものなのでしょうか。ルポライターの昼間たかしさんが東京の街角を舞台に考えます。

厚労省さえ動かす重大さ

 メンタリストのDaiGo氏が「ホームレスの命はどうでもいい」などと発言したことに対して批判が集中しています。

 これは、DaiGo氏が自身のYoutubeのライブ配信で行ったもので

「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら猫を救ってほしい」
「必要のない命は僕にとって軽い」

などの発言を繰り返していました。

東京の街角(画像:写真AC)



 批判に対して2021年8月13日(金)には釈明の動画を更新していますが、そこでも「辛口なんで真に受けないでって言ったんですけど」などと言い訳に終始しており、さらなる批判を浴びる結果となっています。

 生活保護制度を所管する厚生労働省は同日昼、ツイッターの公式アカウントに

「『生活保護の申請は国民の権利です。』」
「生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください」

と投稿。このタイミングでの“表明”に、ユーザーたちからは対応を評価する声などが上がりました。

身近なところにひそむ排除の理論

 多くの人が集い、暮らすために、自然と生まれる雑然とした空気。それこそが東京の魅力です。

 ゆえに東京の街としての魅力の背景には、「多様性」とか「寛容」といった高尚な言葉を用いずとも「人は人」「弱い人には優しく」という当たり前の意識があったはずです。

 しかし、今や東京のみならず社会全体が、そうした当たり前の意識を手放し他人や弱者への厳しい独善性を是(ぜ)としようとしているかのように感じられます。

 当サイト(アーバン ライフ メトロ)に寄稿する記事では「東京」をキーワードに興味深い人物や街の出来事を数多く取り上げています。そうした記事を書くために筆者は、新型コロナ禍でも感染に注意を払いつつ資料を集めたり、街の様子を見に出かけたりしています。

東京には、洗練された街並みと同じくらい、猥雑(わいざつ)さを魅力としてたたえる一角もある(画像:写真AC)



 その中で気付くのは、東京が全国に先駆けて、街の魅力の源泉である雑多な雰囲気を失いつつあるということです。

 雑多な雰囲気というのは、街の光と影の部分がどちらも存在して初めて生まれるものです。ところがこの20年余り、街は誰が言い出すでもなく「ふさわしくないものを排除してキレイな街をつくろう」という意識へと移行を遂げてきました。

「排除」というのは、問題を解決することではなく、とりあえず目の前から消してしまえばいい、という意味です。

 そのひとつの具体例が、今や東京のあちこちで見られる「排除アート」と呼ばれるものでしょう。

街中で設置が進む「排除アート」とは

 街中や公園の長いベンチの真ん中に仕切りを設けて寝そべることができないようにしたり、座るにはあまり適さないオブジェのような形状にしたりして、長時間座り続けることができないものにすること。

 はたまた、駅や通り沿いのちょっとした空間に突起物のようなオブジェを並べて、人がたまることができないようにするものです。

寝そべることができない形状をしたベンチ。街でよく見かけるようになった(画像:写真AC)



 公共空間で主にホームレスがベンチや空いている空間に寝そべったりするのを防ぐ目的で設置された、これらの「排除アート」。建築史家の五十嵐太郎氏が『美術手帖』サイトに寄稿した「排除アートと過防備都市の誕生。不寛容をめぐるアートとデザイン」(2020年12月12日配信)によれば、

「私見によれば、1990年代後半から、他者への不寛容とセキュリティ意識の増大に伴い、監視カメラが普及するのと平行しながら、こうした排除アートは出現した。ハイテク監視とローテクで物理的な装置である。21世紀の初頭、路上に増えだしたときはニュースにとりあげられたが、いまや監視カメラが遍在するのは、当たり前の風景になった」

と記されています。

 実にこの通りで、2000(平成12)年前後にこうしたアートが設置され出した当初には、監視カメラ(防犯カメラ)の増加と並んで「都市を住みにくくする」として批判の声もたびたび見られました。

 最近、排除アートはSNSなどを通じて再び批判的な意見が散見されるようになっていますが、20年ほど前には「プライバシーを脅(おびや)かされる」と猛烈な批判を浴びていたカメラに対する批判の声は、もうほとんど見ることがありません。

 それほど、20年前に「おかしいのではないか」と感じていたことが常識として定着するようになっているのです。

「割れ窓理論」は本当か?

 言うまでもなく街中に設置されたカメラには、防犯意識を高めたり、事件捜査に大きく貢献したりといったメリットもあります。また何より、排除アートや監視カメラは象徴的な事例に過ぎません。

街じゅうに設置されるようになった防犯カメラ。もちろんメリットも数知れないが(画像:写真AC)



 自分たちの街に相応しくないものを排除して、異質な人々が入ってこないように監視する「浄化」は1990年代後半から東京で大きなブームとなりました。

 ここで、街をきれいにすることの正当性を裏付けする理論として用いられたのが「割れ窓理論」です。次のような理論です。

1. 建物の窓が壊れたままになっていることで、犯罪を起こしやすい環境だと認識される
2. ゴミのポイ捨てなどの軽犯罪は起きるようになる
3. 住民のモラルが低下して環境がさらに悪化する
4. 凶悪犯罪が多発するようになる

 まるで「風が吹けば桶屋がもうかる」ような話なのですが、この理論は日本でも相当な説得力を持つものとして受け入れられてきました。

 この理論を元に実効性のある対策を取ったとされていたのが、当時アメリカのニューヨーク市長だったルドルフ・ジュリアーニでした。

 ジュリアーニ市政では、落書きや花火、騒音などの軽犯罪の徹底的な取り締まり、屋台やポルノショップの締め出し、ホームレスを路上から排除し施設に強制収容するといった施策が実施され、犯罪が激減したとされていました。

「体感治安」という指標がはらむ危うさ

 実際には犯罪減少の背景には失業者対策や 麻薬の乱用防止などさまざまな施策が複合的に行われていたのですが、日本へは同理論の「成功体験」がより強調されて輸入されることになりました。

 結果、排除アートや監視カメラの設置が進み、都内各地で地域住民らによる「民間パトロール」と称する自警団活動も活発になりました。

 このとき、よく用いられた言葉が「体感治安」でした。

 これは実際の統計データとは別に、人々が主観的に感じている治安を意味する言葉です。実際に犯罪が起きているかどうかではなく、その街に住む人が「ここは安全だ」と考えるかどうかが求められたのです。

 ゆえに体感治安の改善は、異質なものや個人が「イヤだ」と思うものの排除という形で具体化しました。

 ホームレスの排除だけでなく、若者が駅やコンビニに集まり、たむろすること。路上でタバコを吸っている人、コンビニで大人向けの雑誌を売っていること……。

「個人的に気にくわないものは社会にとっても害悪なはずだから排除しても構わない」という意識は20年余りの間に熟成され、個別具体の是非を問うまでもなく疑問を呈す余地のないものへと深化していきました。

 結果、東京の街には“何だか落ち着きのない街”という側面が生じています。

 例えば京都の場合、繁華街のすぐそばの鴨川の河原は若者たちが集う定番スポットとなっています。しかし東京で繁華街周辺で、無料でゆっくり過ごすことができる場所はどこかと考えると、都内を日々取材して回っている筆者もすぐには思いつきません。

異質なものの排除が進む先にあるもの

 もうひとつ例を挙げます。

 東京都内にもいくつも立地している最高学府、大学。その敷地内への出入りはかつて、ごく自由で、別の大学に通う学生がほかの大学の講義にもぐり込み聴講するといったことは一般的な光景とされていました。

 例えば東京大学の本郷キャンパス(文京区本郷)の場合、入り口には「関係者以外立入禁止」との看板が設置されてはいます。しかし、敷地内を通り抜けに使っている通行者は決して珍しくなく、散歩を楽しんでいる人、さらに秋にはイチョウ並木の下でギンナン拾いをしている人の姿も、何気ない風物詩的風景のひとつです。

 しかし昨今、大学当局側ではなく一般の市民の側から「キャンパス内は関係者以外立ち入り禁止だ」との考えを聞く機会が少なからず増えました。

東京大学。秋にはイチョウ並木が美しい(画像:写真AC)



 異質なものの排除は、何か極端な方向へと進んでいるように筆者は感じます。

 とりわけ街の“影”の部分の排除は、結果として街の魅力を消滅させてしまうのではないかとも感じています。

 再開発が進んだエリアは、見た目に治安が良くキレイに洗練された、「奇妙なモノや人のない街」へと変貌(へんぼう)しています。

 それらの街はどこも、似たようなショッピング施設に似たような店舗が入居し、ちょっと座って休憩するだけでも飲み物の代金くらいは支払わなくてはならず、味わいを感じ深い愛着を抱く対象としての街とは趣を異にしています。

街が「光と影」を持ち併せることの意味

 かつての東京を考えると、例えば新宿・歌舞伎町は治安は悪いけど大人にとってはその猥雑(わいざつ)さが魅力的な街、その一方で銀座は、お店はどこも高いけど安心して遊べる街、といったような“すみ分け”がありました。

 しかし、今の東京の街はどこも「そこそこ」の街になりつつあります。

 もちろん、日々の暮らしが平穏な方がよいと考えるのは当然です。しかし自分の平穏な暮らしの外には、さまざまな生き様があり、幸せな人もいれば、不幸な人もいる。そんな複雑さを知ってこそ、今の暮らしの意味についても問い直すことができるはずでしょう。

 弱者を排除し、あまつさえバカにするDaiGo氏発言のような風潮は、自分の知る世界が狭いことを自ら露呈しているようなものです。これからも、当サイトに寄せる記事では、皆さんがまだ知らないさまざまな東京の表情を捉えて紹介していきたいと考えています。

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