下町・宿場町だけじゃない! 足立区「千住地区」はかつて江戸とつながるアートな街だった

下町や宿場町のイメージが強い千住地区ですが、かつてアートの街と呼べる盛り上がりがあったことをご存じでしょうか。文教大学国際学部准教授の清水麻帆さんが解説します。


世代を超えて行われた交流

 こうした文芸活動は千住で根付いていました。巣兆が亡くなった後も、江戸の文化人と千住の人々との交流が続いていたのです。巣兆が亡くなった翌年の1815(文化12)年10月21日、千住連は「千住酒合戦」を開催し、江戸を代表する文化人たちも招かれました。

 千住酒合戦は俳諧の会ではなく、千住の飛脚問屋の主人の還暦を祝う酒呑イベントで、総勢約100人も参加したようです。そのなかには、巣兆の友人だった谷文晁を始めとする江戸の文化人たちの姿もありました。

 また数年後には、巣兆や文晁の書画などの展覧会が源長寺(足立区千住仲町)で開催されています。源長寺は、当時、巣兆寺と呼ばれ、巣兆が生前に酒を飲み、絵を書いていた巣兆ゆかりの場所です。

足立区千住仲町にある源長寺(画像:(C)Google)

 そして、前述の狩野派の絵師・狩野寿信の3代前の狩野章信(1765~1826年)も千住酒合戦に参加していた文化人のひとりであり、千住と狩野派の絵師との交流は世代を超えて続いていました。

 このように巣兆が造った文化サロンを通じて、江戸の文化人と千住の人々の文化的交流が広がり、千住文化の発展や貴重な芸術作品を生み出され、今に伝えられています。

発展を支えた創造的空間

 千住という地域は元々、宿場町という街の特性から多様な人々との交流やつながりが多く、他者を受け入れて、町を発展させてきた背景を持ちます。

 こうした他者との交流に寛容な街は社会に多様性をもたらし、文化的交流も促進します。

 千住文化の発展や貴重な芸術作品は、その結果と言えるのです。


【地図】今とどう違う? 明治初期「千住地区」

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