下町・宿場町だけじゃない! 足立区「千住地区」はかつて江戸とつながるアートな街だった

下町や宿場町のイメージが強い千住地区ですが、かつてアートの街と呼べる盛り上がりがあったことをご存じでしょうか。文教大学国際学部准教授の清水麻帆さんが解説します。


千住のアートを振興した文化サロン

 千住がアートな街として繁栄していたもうひとつの背景には、文化交流が盛んだったことが挙げられます。

 当時の千住は、文化人と旦那衆(住民)との交流が盛んでした。そのきっかけとなったのが、建部巣兆(たけべそうちょう、1761~1814年)です。

 巣兆は画人・俳人として評価された文化人で、養子になったことをきっかけに千住に移り住んでいます。そして「秋香庵(しゅうこうあん)」という活動拠点を構え、そこで「千住連」という俳諧活動を行っていました。

 千住連のメンバーは、千住宿の掃部(かもん)宿や青物問屋、川魚問屋などの旦那衆が中心でした。会には、江戸の文化人である谷文晁(たにぶんちょう)、小林一茶、酒井抱一(ほういつ)、大田南畝(なんぽ)、亀田鵬斎(ぼうさい)などが招かれ、文芸活動や文化交流を積極的に行っていました。

 こうした文化活動を行っていた千住連は、今でいう「文化サロン」の役割を担っていました。巣兆は彼らとともに文芸活動を行い、酒を飲み、知的な会話を交わしていたのです。

世代を超えて行われた交流


【地図】今とどう違う? 明治初期「千住地区」

画像ギャラリー

/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_05-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_06-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_07-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_08-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_09-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_10-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_01-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_02-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_03-150x150.jpg
/wp-content/uploads/2021/08/210813_art_04-150x150.jpg

New Article

新着記事

Weekly Ranking

ランキング

  • 知る!
    TOKYO
  • お出かけ
  • ライフ
  • オリジナル
    漫画