下町・宿場町だけじゃない! 足立区「千住地区」はかつて江戸とつながるアートな街だった

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下町・宿場町だけじゃない! 足立区「千住地区」はかつて江戸とつながるアートな街だった

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清水麻帆

文教大学国際学部准教授

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下町や宿場町のイメージが強い千住地区ですが、かつてアートの街と呼べる盛り上がりがあったことをご存じでしょうか。文教大学国際学部准教授の清水麻帆さんが解説します。

続々発見される江戸の芸術作品

 足立区の千住地区は、現在「下町」、江戸時代は「宿場町」というイメージが強いです。しかし近年、狩野探信守政(かのうたんしんもりまさ)の「西王母・東方朔図屏風」を始めとする、江戸・明治時代の琳派(りんぱ)や狩野派などの貴重な作品も発見されています。

千住地区の中心である北千住駅周辺(画像:(C)Google)



 足立区郷土博物館(足立区大谷田)によると、きっかけは2010年に「千住の琳派」という展示会を開催したところ、「同じような絵がうちにもある」という情報が足立区住民からあったことでした。その後、博物館は調査を始め、千住の人々の横のつながりで情報を得ながら、歴史的価値の高い多くの芸術作品を発見していきました。

 こうした作品が多く残っているのは、江戸と地方を結ぶ宿場町の千住が当時、アートな街だったからではないでしょうか。

宿場町として栄えた千住

 背景のひとつには、千住の街が栄えていたことが挙げられます。

 千住は1597(慶長2)年、奥州街道と日光街道の宿駅(旅客の宿泊所や荷物輸送の人馬などを用意した施設のあるところ)となり、

・千住宿
・板橋宿
・内藤新宿
・品川宿

といわれた宿場町(江戸四宿)のひとつでした。人口も約1万人の四宿最大で、岡場所(政府公認の遊郭)としても栄えていました。

 また周辺は風光明媚(めいび)な行楽地としても発展しており、千住大橋や西新井大師、関谷の里などを始めとして、江戸町民の観光地になっていました。

冨嶽三十六景「隅田川関屋の里」(画像:文化庁)

 実際、浮世絵師の葛飾北斎や歌川広重はこうした行楽地を描いています。葛飾北斎の富嶽(ふがく)三十六景『隅田川関屋の里』は、足立区千住仲町の氷川神社南の墨堤通り沿いから描いた作品であると言われています。

 さらに、千住は商業の街としても発展していました。その背景には、荒川や隅田川が近くを流れ、材木から野菜・魚などの物資を江戸へ運び込むための中継地点になっていたことが挙げられます。

町の発展とパトロンの存在

 このように江戸時代の千住は、

・中継地点の「宿場町」
・江戸町民の「観光地」
・盛んな「商業の街」

として、栄えていました。

千住4丁目にある横山家住宅(画像:清水麻帆)

 こうした町の発展とともに経済力を持つようになった豪商の一部には、パトロンだった人も存在していたのでしょう。例えば、千住の地すき紙問屋であった横山家には、狩野派の絵師・狩野寿信(1820~1900年)の作品と見られる『群鶴図屏風』が代々伝えられてきました。

千住のアートを振興した文化サロン

 千住がアートな街として繁栄していたもうひとつの背景には、文化交流が盛んだったことが挙げられます。

 当時の千住は、文化人と旦那衆(住民)との交流が盛んでした。そのきっかけとなったのが、建部巣兆(たけべそうちょう、1761~1814年)です。

 巣兆は画人・俳人として評価された文化人で、養子になったことをきっかけに千住に移り住んでいます。そして「秋香庵(しゅうこうあん)」という活動拠点を構え、そこで「千住連」という俳諧活動を行っていました。

 千住連のメンバーは、千住宿の掃部(かもん)宿や青物問屋、川魚問屋などの旦那衆が中心でした。会には、江戸の文化人である谷文晁(たにぶんちょう)、小林一茶、酒井抱一(ほういつ)、大田南畝(なんぽ)、亀田鵬斎(ぼうさい)などが招かれ、文芸活動や文化交流を積極的に行っていました。

 こうした文化活動を行っていた千住連は、今でいう「文化サロン」の役割を担っていました。巣兆は彼らとともに文芸活動を行い、酒を飲み、知的な会話を交わしていたのです。

世代を超えて行われた交流

 こうした文芸活動は千住で根付いていました。巣兆が亡くなった後も、江戸の文化人と千住の人々との交流が続いていたのです。巣兆が亡くなった翌年の1815(文化12)年10月21日、千住連は「千住酒合戦」を開催し、江戸を代表する文化人たちも招かれました。

 千住酒合戦は俳諧の会ではなく、千住の飛脚問屋の主人の還暦を祝う酒呑イベントで、総勢約100人も参加したようです。そのなかには、巣兆の友人だった谷文晁を始めとする江戸の文化人たちの姿もありました。

 また数年後には、巣兆や文晁の書画などの展覧会が源長寺(足立区千住仲町)で開催されています。源長寺は、当時、巣兆寺と呼ばれ、巣兆が生前に酒を飲み、絵を書いていた巣兆ゆかりの場所です。

足立区千住仲町にある源長寺(画像:(C)Google)



 そして、前述の狩野派の絵師・狩野寿信の3代前の狩野章信(1765~1826年)も千住酒合戦に参加していた文化人のひとりであり、千住と狩野派の絵師との交流は世代を超えて続いていました。

 このように巣兆が造った文化サロンを通じて、江戸の文化人と千住の人々の文化的交流が広がり、千住文化の発展や貴重な芸術作品を生み出され、今に伝えられています。

発展を支えた創造的空間

 千住という地域は元々、宿場町という街の特性から多様な人々との交流やつながりが多く、他者を受け入れて、町を発展させてきた背景を持ちます。

 こうした他者との交流に寛容な街は社会に多様性をもたらし、文化的交流も促進します。

 千住文化の発展や貴重な芸術作品は、その結果と言えるのです。

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