渋沢栄一が「官尊民卑」を嫌い、民間人の人生にこだわったワケ【青天を衝け 序説】

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渋沢栄一が「官尊民卑」を嫌い、民間人の人生にこだわったワケ【青天を衝け 序説】

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小川裕夫

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“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

まげを落として酷評された渋沢

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、7月18日放送回で草彅剛さんが演じる徳川慶喜が政権を返上。いわゆる大政奉還が描かれました。これにより、徳川の治世が幕を下ろします。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 徳川体制の終焉(しゅうえん)時、渋沢はパリに滞在中でした。作中でも描かれていましたが、渋沢はパリ滞在が長くなるにつれて、現地に順応するべく武士の魂とも言えるまげを落としました。

 まげは武士にとってアイデンティティーでもあるため、板垣李光人(りひと)さんが演じる徳川昭武に随行した水戸藩士たちは、かなり抵抗感を抱いたようです。

 また、渋沢はまげを落とした姿で写真を撮り、それを日本の家族に送っています。渋沢の姿を写真で見て、家族は「情けない姿」と酷評しています。それほど西洋諸国と当時の日本は価値観がかけ離れていたのです。

 しかし、渋沢は異国に順応し、最新の知見と技術・文化を精いっぱいに吸収しようと努めます。フランス滞在中、渋沢は昭武のお供としてヨーロッパ各国を巡歴。昭武一行がパリから最初に向かったのがスイスです。その後、パリに戻ることなくオランダ、そしてベルギーを回りました。

 この巡歴で、渋沢は生涯にわたって印象深い体験をしています。それが、ベルギー国王との謁見(えっけん)でした。

 作中でも描かれましたが、ベルギー国王は昭武に対して「これからは鉄を大量に使う時代になる。ベルギーでは多くの鉄を安価に生産することができる。日本は、わが国からたくさん購入してほしい」と打診しています。ベルギー国王がビジネスの話をしたのです。

 当時の日本では、金銭をもうける行為は卑しいと考えられていました。そのため、武士は商売について口にすることありません。高い身分の人々が、金もうけを口にすること、考えることはご法度だったのです。

帰国後に退官、民間人へ

 ベルギー国王が直々に「わが国の鉄を買ってくれ」と口にしたことは、渋沢にとって衝撃的でした。現在なら、国王や大統領、首相といった国のトップが、他国と貿易について話を交わすことは珍しくありません。渋沢は驚きつつも、ヨーロッパのビジネス感覚こそが国の発展には重要であると考えます。

ベルギーの街並み(画像:写真AC)



 帰国後、渋沢は明治新政府へと出仕しますが、わずかな期間で退官。官職を辞した後、渋沢は常に民の立場から物事を考えていきます。以降、民間で生きるという渋沢の信念は、後年になっても変わることがありませんでした。

 1901(明治34)年、第4次伊藤博文内閣が倒壊すると、次の内閣総理大臣に井上馨が指名されます。渋沢の短い役人人生において、直属の上司だったのが井上です。役人を辞めて民間に転じた後も、渋沢は井上に厚い信頼を寄せていました。一方、井上も渋沢の才能を高く買い、全幅の信頼を寄せていました。

 そのため、内閣総理大臣に指名されると、井上は真っ先に渋沢を大蔵大臣に起用する案を固めます。しかし、井上が大蔵大臣の就任を打診しても、渋沢は政治家になる気はないと即座に断ったのです。

 渋沢は東京市の参与、東京市区改正審査会委員など政府や東京府の有識者会議などで民間人として委員に名を連ねたことがありました。また、一時的ですが、渋沢が居住していた深川(現・江東)区の区会議員を務めています。これらの役職は渋沢にとって政治家としての活動ではなく、あくまで地域へ貢献するための活動でした。

幻に終わった井上内閣と渋沢の不変性

 例えば、深川区では渋沢が面倒を見ていた実業家・浅野総一郎がセメント工場を操業していました。セメント工場が操業したことで、騒音・振動といった問題が起きていたのです。また、騒音・振動のほかにもセメント工場が排出する煙やちりが周辺住民に健康被害を及ぼしていました。

 そうした公害問題を解決するための手段として一時的に区会議員になりましたが、官の立場から社会を変えようという気はなかったのです。かたくなに官職につくことをよしとしない渋沢のスタンスは、恩人とも言える井上に対しても変わりません。

 明治期は官尊民卑の意識が強く、民間企業は官に従うのが当たり前という意識は根強くありました。渋沢の民から社会を変えるという考え方は官の人間、特に政治家からは奇妙に映ったことでしょう。

 政府の高官のなかでも井上は渋沢と親しい間柄でもあったために、渋沢の考えを熟知していました。そのため、渋沢が大蔵大臣就任を固辞しても理解を示し、特に驚くことはありませんでした。

 渋沢が大蔵大臣を断ったことで組閣が難しくなり、井上内閣は幻に終わります。井上にとっては総理大臣に就任する千載一遇のチャンスを逃したわけですから、渋沢に恨みを抱いてもおかしくない話です。しかし、渋沢と井上の信頼関係・交友関係はその後も変わることはありませんでした。

渋沢栄一(画像:深谷市、日本経済新聞社)



 後年、渋沢は各地に呼ばれて講演をしています。渋沢の講演では、必ずと言っていいほどベルギー国王の謁見時に受けた衝撃的なエピソードを披露しています。そして、ビジネスは卑しい行為ではない、ビジネスでもうけた利益を社会に還元することを説くのです。

 ベルギー国王とのエピソードは、作中ではあっさりと描かれていました。しかし、実は渋沢の人生を決定づけるほどの大きな体験だったのです。

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