『鬼滅』大好きライターが「浅草~吉原」を歩いて痛感 東京から消滅しつつある「ダークサイド」と日本の未来

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『鬼滅』大好きライターが「浅草~吉原」を歩いて痛感 東京から消滅しつつある「ダークサイド」と日本の未来

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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アニメ『鬼滅の刃』の2期“遊郭編”で注目が集まる台東区の吉原。そんな同地をルポライターの昼間たかしさんが歩きました。

光と影が入り混じる浅草の魅力

 今秋からアニメ『鬼滅の刃』の2期“遊郭編”が始まります。筆者(昼間たかし、ルポライター)は単行本を何度も読み返していますが、放送が楽しみでなりません。

 そんな盛り上がりを我慢できず、作品の舞台をほうふつさせる、台東区の浅草から吉原までを歩いてみました。

吉原の街並み(画像:昼間たかし)



 物語の冒頭で竈門炭治郎(かまどたんじろう)と鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)が遭遇した浅草――。今の浅草は昭和レトロな風景で知られていますが、大正時代には東京でも一番の繁華街でした。

 現代でいえば、新宿と渋谷を併せたようなにぎわいといえばいいでしょうか。なにしろ映画館や芝居小屋などの娯楽施設で家族連れが楽しめる一方、素行の悪い不良も集まり、怪しげな品物を売る露店も多くありました。

 光と影が入り混じる、そんな怪しさこそが浅草の魅力だったのです。

浅草の真の魅力を描く川端作品

 浅草の真の魅力を知るなら、川端康成の小説『浅草紅団(あさくさくれないだん)』がおすすめです。

川端康成『浅草紅団・浅草祭』(画像:講談社)

 この作品は『鬼滅の刃』の時代より、もう少し後の昭和初期の浅草を描いています。川端康成はノーベル文学賞を受賞した大作家で、『伊豆の踊子』のような情緒ある味わい深い作品で知られています。ところが『浅草紅団』で描かれるのは、えたいの知れない美醜が混在している浅草の街です。

 これを読むと、世間に知られてはいけない、光と影の存在である炭治郎と無惨の交錯する場所が浅草だった理由が想像できます。

 今の浅草は極めて明るくそのような雰囲気はありませんし、江戸情緒を基本とした健全な観光地です。コロナ禍で外国人観光客が減ったものの、密を避けながら気軽な行楽を楽しもうと考える人に最適なのか、通りは平日でも賑わっています。

 とりわけ人々が必ず訪れるのは、浅草寺のおみくじです。このおみくじは高確率で凶が出ることで知られています。それにもかかわらず人気なのは、凶が出れば「油断せずに毎日を過ごさないと」という戒めになると皆さんが思っているのでしょうか?

 そんなことを考えながら、筆者もおみくじを引いてみました。するとびっくり! なんと吉がでたのです。ただ、「もしや運気は今が頂点で、あとは下がるばかりでは……」といきなり不安になってしまい、線香をお供えして煙を身体中に浴び、邪気を払った気持ちを得ることにしました。

 以前、浅草に会社を構える経営者にお話を聞いたとき、こんなことを聞きました。

「自分は毎月一度、必ず浅草寺にお参りしているが、願い事はしない。ただ手を合わせて、いつもありがとうございます、とだけ心の中で祈るんだ」

 そんな謙虚な気持ちになるには、筆者はまだ修業が足りません。

浅草周辺は明治時代と変わらぬ作り

 さて、観光地になっている浅草も北は浅草寺まで。そこから先は、静かな下町が広がっています。ここからが、今回の観光のメインです。

 吉原がかつて存在した時代、人々は浅草から徒歩で移動したと言われています。それを踏まえて、今回歩いてみることにしましたが、意外に距離があります。昔の人がいかに歩く距離を気にしていなかったか、よくわかるというものです。

 道中は大通りを歩くより、迷いながらも裏通りを歩くのがおすすめです。なぜなら、震災や戦災を経て整備が進んでいるものの、周辺地域には古くからの道が多いためです。

1909(明治42)年の地図と現在の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 1909(明治42)年の地図と現在の地図とを見比べてみると、浅草かいわいは現代と道路が重なっている場所が多くなっています。このことからも、周辺地域がいかに古くから発展していたかがわかります。ゆえに目立つものはありませんが、独特のひなびた空気のなかで散歩すると、とても心地よいです。

 古くからの道が多いというのは、吉原もまた同じです。

 周辺道路で特徴的なのは、かつては吉原への唯一の出入り口だった吉原大門のところまでの道が、「くの字」に曲がっていることです。これは、江戸時代に将軍がタカ狩りのために近くを訪れたとき、大門が見えないように配慮したためとされています。

古い1本の柳の木が語る歴史

 そんな大門に続く土手通りにあるのが、1本の柳の木「見返り柳」です。遊女との遊びから帰る客が、後ろ髪を引かれて振り返ったとされることから、この名前がついています。

吉原にある「見返り柳」(画像:昼間たかし)

 そんな柳は、日本の文学史においても重要な要素です。樋口一葉の代表作『たけくらべ』の冒頭には

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」

と書かれています。

 当時の柳から代替わりしていますが、過去からの歴史をつなぐ重要な要素になっています。

 とはいえ、一抹の寂しさも感じます。吉原という地名と、そこで育まれた文化は多くの作品に描かれていますが、かつての吉原の名残はこの柳くらいしかないのです。

近年増えた女性グループの姿

 実際、かつての吉原に足を踏み入れましたが、なかなか歴史を感じさせるものに出会えません。「かつての風情の名残があるのではないか」と考えて歩いても、往時を偲ぶことは困難です。

 しいて言えば「花吉原名残碑」などの石碑がある吉原神社(台東区千束3)や、関東大震災で亡くなった人を弔う吉原観音を祭った吉原弁財天奥宮(同)くらいでしょう。

 なにより歴史のある地域ではあるとはいえ、吉原は現在も風俗店が軒を連ねる歓楽街です。そのため、多くの人が足を運ぶ観光地とはなりえないのだと改めて感じました。

 しかしそんな吉原には変化も起こっています。

 近年、吉原に興味を持って訪れる女性も増えているのです。実際、今回の取材中も吉原神社に参拝している女性グループを何組も見かけました。

 吉原に興味を持つ女性が増加した大きな理由は、2016年に開業した遊郭の書籍を専門に扱うカストリ書房(千束4)の登場です。こちらが開催する催しは、いつもその多くが女性客です。

カストリ書房(画像:昼間たかし)

 実際、このお店ができたころから「遊郭の歴史に興味がある」と関連書を買い集めている女性たちに出会う機会が増えました。

労働者の街が大変身

 散策を終えた後は、南千住駅方面に歩きます。

 こちらに歩いたときに驚くのは、風景の激変です。途中の山谷はかつては日雇い労働者の街として知られ、安価な宿やお店が並ぶ商店街がありました。

 ところが、社会構造の変化とともに街は激変。近年はバックパッカー向けの宿が集中するエリアとなり、商店街のアーケードも2018年に撤去。それから3年あまりで小ぎれいな住宅も増えて、マンションも建ち始めています。10年くらい前の雑然とした街を知っていると、なんだか異世界に来たような気分になります。

 そんなかつての商店街の一角にあるのが、山谷酒場(台東区日本堤)です。この店は、アーケードの撤去された2018年に「かつての山谷に大衆酒場をつくる!」というクラウドファンディングで資金を募ってできました。いわば山谷にできた、若者が集まる新たなスポットといえます。

山谷酒場(画像:昼間たかし)



 今回1年ぶりくらいに訪れてみたのですが、コロナ禍で大変ななか頑張っています。以前からマーボー豆腐がおいしかったのですが、知らぬ間に「自家製スパイススカッシュ」という新たなラインアップが登場していました。さんしょうなどが入った独特のノンアルコールスカッシュですが、なかでも「ハーブと青唐辛子」は舌と喉が炭酸よりも強烈に刺激され、夏にふさわしい味わいです。

都会の「影」はどこにいったのか

 ここで喉を潤して、南千住駅への道中で改めて街の変化を感じました。この街も日雇い労働者の街としての時代は過ぎ去り、住宅地へと姿を変えています。かいわいにマンションやコンビニが出来たときは地域でも話題になりました。それが今ではマンションはあちこちに出来て、スーパーマーケットもあります。

 筆者が初めて訪れた1990年代は、南千住駅からの道中はあちこちに政治団体のビラが張られていて、雰囲気はものものしく、歩くときも緊張しました。そんな印象も今はありません。

 南千住駅前に至っては、再開発でマンションと複合施設もつくられ、JRと地下鉄、つくばエクスプレスの3路線が利用できる郊外の便利な街になっています。

吉原周辺の風景(画像:昼間たかし)

 浅草から吉原、山谷へと歩くなかで気付いたのは都会に必ずあった光と影の部分が消滅していることでしょう。どこの街も感じるのは明るい光の部分だけ。いったい、影の部分はどこに消えたのでしょうか。

『鬼滅の刃』をきっかけに、ひなびた東京、そして消えゆく都会の影を探したくなる、このエリア。三密と暑さに気をつけながら歩いてみることをおすすめします。

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