はとバスの歌でおなじみ? 出勤は朝4時台、昭和名物「バスガール」を振り返る

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はとバスの歌でおなじみ? 出勤は朝4時台、昭和名物「バスガール」を振り返る

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真砂町金助

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東京のバスにかつていたバスガール。その歴史について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

「はとバスの定番ソング」と認識された歌

 初代コロムビア・ローズが歌う『東京のバスガール』は、1957(昭和32)年に大ヒットした昭和の流行歌です。そんな初代コロムビア・ローズがデビューしたのは1952年で、曲は『娘十九はまだ純情よ』。以来、ヒットに恵まれた彼女の名を不動のものにしたのが『東京のバスガール』でした。

早稲田大学行きのバスが出ている高田馬場駅前のバス停。1965年撮影(画像:時事)



「若い希望も 恋もある ビルの街から 山の手へ」と始まり、サビの部分で「明るく明るく 走るのよ」となる歌詞は、大都会東京でひたむきに生きる働く女性を描いたものです。

 そんな歌を今でも生で聞けるのが、はとバスです。はとバスのバスガイドにはこの歌が歌い継がれているのです。

 ただし「はとバスの定番ソング」とは言い切れません。歌詞では前述のように「ビルの街から 山の手へ」「酔ったお客の意地悪さ」とあり、明らかに路線バスを描いているような印象を受けるからです。

 その理由は、初代コロムビア・ローズが歌っていた当時に由来します。

 ちょうど、テレビが普及した時代、初代コロムビア・ローズは多くの歌番組に出演し、『東京のバスガール』を披露していました。そのときのステージ衣装が、当時のはとバスの紺の制服でした。これが「歌詞は路線バスだけど、はとバスの定番ソング」となった理由です。

 この時代は、ヒットした歌謡曲が同名タイトルで映画化されるという、メディアミックスの原型がありました。このような映画は歌謡映画と呼ばれました。そのため『東京のバスガール』も、1958年に美多川光子主演で日活が映画化しています。この映画でもヒロインの仕事は観光バスのバスガイドでした。

「地道な路線バスの車掌」への目線

 ただこの歌が共感を呼んだのは、路線バスの車掌のイメージでした。

『朝日新聞』夕刊で連載されていた「戦後歌謡史 歌の中の東京」の『東京のバスガール』を取り上げた回(1995年7月26日付夕刊)には、

「観光バスのガイドではなく、地道な路線バスの車掌である。生き生きと働く若い女性像が共感を呼んだ」

とあり、初代コロムビア・ローズの語った

「バスガールはぐっと身近でしたからね。子供を都会に出した人たちの身につまされる感慨もあったのでしょう。公演にいく先々で大歓迎されました」

という思い出も記しています。

重労働だった車掌の仕事

 さて、『東京のバスガール』で歌われたバスの車掌も既に過去の職業になりました。観光バスにバスガイドは乗車していますが、路線バスで車掌が乗車している姿はもう見かけません。

東京の路線バス(画像:写真AC)



 現在のように、運転手がひとりで乗務するワンマン化が進んだのは1960年代のことです。『東京のバスガール』でイメージされる都営バスで車掌が廃止されたのは、1970(昭和45)年のこと。バスの車掌は主に女性が採用され、もっとも身近な「働く女性」でもありました。

「路線バスの花」というような表現も見られますが、車掌の仕事は重労働です。なにしろバスは年中無休。早出のときは朝4時半頃に営業所へ出勤します。板張りの車内を掃いて、窓を拭き、運転台を磨くところから仕事は始まります。

 発車すると乗客を相手に切符を切り、停留所を案内。当時のラッシュ時の混雑は過酷です。ドアが閉まらないところまで乗客を詰め込んで、車掌が腕を張って入り口で踏ん張りながら「発車オーライ」ということも。

 みんなが「黄色い部分には立たないでください」というルールを守る現代とは大違い。それでもバスの車掌は、女性が働いて自活できるだけの給料を得られる職業として人気でした。

『東京のバスガール』がヒットしたのは、彼女たちの身近さにあったと言えるでしょう。

「添乗員」という扱いも

 ところで、バスガールはいつ頃完全に消滅したのでしょうか。

 新聞記事を調べてみたところ、首都圏では1988(昭和63)年時点で、横浜市営バスの、横浜市磯子区の滝頭市電保存館前から、JR磯子駅前・京浜急行杉田駅前を経由し、峰へ向かう10系統と、磯子駅前と氷取沢を結ぶ93系統には車掌が乗車しているとあります(『朝日新聞』1988年5月21日付朝刊)。

 記事によれば、正確には車掌ではなくワンマンバスの「添乗員」という扱い。当時、この路線は道路が狭く、駐停車している車両も多いため、運転手ひとりでは安全確保が困難と判断し、複数乗務が行われていたそうです。

 路線の本数は2系統で23往復とそこそこ多かったため、いわゆる「バスガール」である女性乗務員のほか、男性運転士も交代で車掌役を務めていたと記されています。

 資料を調べた限りで、バスの車掌乗務景は既に過去の記憶となっているようです。それでも歌はこれからも長く歌い継がれていくのでしょう。

「「はとバス」六〇年 昭和、平成の東京を走る」(画像:祥伝社)



 ちなみにインターネット上には、はとバスが『東京のバスガール』のモデルという説がいくつも記述されていますが、根拠はありません。「「はとバス」六〇年 昭和、平成の東京を走る」(祥伝社)の著者、中野晴行さんに聞いたところ

「はとバスの広報に確認しましたが、特にコロンビアレコードからモデルにしたいと申し出があったという記録はなく、そのへんはよくわからないとのことでした。否定も肯定もできないです」

とのことでした。

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