東京から300km先に向かう「長距離客」 新幹線に乗れなかった親子3人の切ない事情とは【連載】東京タクシー雑記録(11)

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東京から300km先に向かう「長距離客」 新幹線に乗れなかった親子3人の切ない事情とは【連載】東京タクシー雑記録(11)

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橋本英男

フリーライター、タクシー運転手

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タクシーの車内で乗客がつぶやく問わず語りは、まさに喜怒哀楽の人間模様。フリーライター、タクシー運転手の顔を持つ橋本英男さんが、乗客から聞いた奇妙きてれつな話の数々を紹介します。

タクシー業界の「お化け客」

 フリーライターをやりながら東京でタクシーのハンドルを握り、はや幾年。小さな空間で語られる乗客たちの問わず語りは、時に聞き手の想像を絶します。自慢話に嘆き節、ぼやき節、過去の告白、ささやかな幸せまで、まさに喜怒哀楽の人間模様。

さまざまな客を乗せて走る東京のタクシーのイメージ(画像:写真AC)



 今日はどんな舞台が待っているのか。運転席に乗り込み、さあ、発車オーライ。

※ ※ ※

 学校、会社、住んでる地域。どんな場所にも「七不思議」とか「都市伝説」といった類は存在するものです。

 タクシーの業界で「お化けの客」と呼ばれる乗客がいるのをご存じでしょうか。本物の幽霊という意味ではなく、信じられないような長距離を頼んでくれるお客さんのことです。

 私がこれまでに乗せた、一番の長距離客についてお話しします。

警察署前で呼び止められた

 もう何年も前のことです。その日、東京は梅雨明けの快晴でした。午前10時、私の車は日比谷通りを西新橋に向けて、のんびりと流し営業をしていました。

 都心も都心の大きな警察署前に差し掛かったところ、署の警察官ふたりが私を指さして「止まれ、止まれ」と合図をしているではありませんか。私は交通違反をした覚えなどありませんので、見なかったことにして走り抜けようなどと考えていました。

 ところがふたりは笛まで吹いて、車の前に出て両手を広げるんです。仕方なく停車しました。

ついてないなと思いきや

「あのぅ、私、特に違反はしていないはずですが……」
「おー、ごめんごめん。あのね、お客さんをお願いできませんか。行先は少し遠いですが」
「あっ、お客さんですか? もちろんです、どうぞどうぞ」

都心のある警察署まで突然呼び止められて……(画像:写真AC)



 私は勘違いしていました。職業柄、お巡りさんに止められるというのは決していい気持ちのするものではありませんし、場所が場所なもので、実に慌てていたのです。

 それで「少し遠い」と言われたので、どこまで行く客なのかなぁと、気持ちを落ち着かせながら2、3分ばかり玄関前で待っていると、先ほどの警察官に促されるように、50代前後の両親に挟まれて高校生くらいと思われる少年の3人が、後部座席に乗ってきました。

 少年はふくれっ面です。

 父親が「静岡の浜名湖まで行ってもらえませんか?」と。母親も私に頭をペコペコしています。

 浜名湖!? 静岡の西の端です。愛知県に近い。とんでもなく遠いじゃない、と驚き、最初は冗談を言っているのではと思ったほど。

「それでしたら新幹線の方が速いし料金も安いですから、タクシーよりは……」

新幹線に乗れなかった事情

 すると父親がちょっと言いにくそうに事情を話し始めたのでした。

「いや、こいつが家出をして警察に保護されてね。もし途中で逃げられたらまた事だと思いまして。仕方なくタクシーで帰るんです」
「そ、そうですか。えぇーっと、じゃあ料金はけっこう掛かると思いますが、どうしますです? ク、クレジットカードのお支払いですか、いや、でしょうか?」
「いえ、現金でお願いします。多めにかかっても仕方がない」
「はぃーーーい」

 私は妙に興奮してしまい、どうも言葉がうまく出ません。

思いがけない長距離客を乗せて、動揺が隠せなかった(画像:写真AC)



 先方の事情は複雑のようですが、タクシー運転手の正直な本音としては、うれしいやら何やらで、つい目じりが下がります。こちらも商売ですので、分かっていただけたらと思いますが、はっきり言って鳥肌ものです。

 苦節ウン十年、やっと“大物”に当たったぁ。どうだ、埋もれていたこの実力を、わが社の社長から下の者たちまで、見たことかー。……内心は、そんな感動でした。

 このような長距離客の場合は、必ず会社に連絡することになっています。それで、同区内の某インター近くで運行係に電話をしました。

運行係も絶句するほど

「それはすごい遠いねぇ……。10年に一度あるかないか、かも。安全運転でお送りください。300kmはあるから、お客さんに断ってまずは燃料を満タンにしてください。帰りは足柄サービスエリア(SA)でガスを入れた方がいいねぇ。東名でガス欠なんてしたら、目も当てられない」

「トイレ休憩も考えてください。浜名湖SAは一般道に降りられないはずだから、手前の浜松西あたりで降りるんじゃないかな。東名は行き過ぎると長い距離を戻らなくちゃならない。それだけは注意してください」

「それから、料金には帰りの高速代も請求してください。60kmをオーバーするお客さんには、成田空港は別として帰りの高速代はいただく決まりですから。とにかくトラブルのないように」――

 さすがタクシー会社の運行係です。私の知りたいことを全てガイドしてくれます。

 私の頭には、これからの未知のコースに一抹の不安がよぎります。途中で車の故障とか、変な車とトラブルにならないかとか、家出してきたという少年がどこかで逃げ出してしまわないかとか、そんなことをグルグル考え始めます。

「お客さん、このタクシーは燃料タンクが65lで400kmしか走れません。高速道路でガス欠になったらえらいことなので、一度燃料を入れますけどいいですか?」
「もちろんいいですよ。私らは運転手さんに全てお任せします」
「ありがとうございます」

「運転も疲れると思いますから、休み休みでかまいません」

仲間から激励と見送りを受け

 こちらへの気遣いまで見せてくれる親父さん。社会性も何だか高そう。きっと良いご家族なのでしょう。

「はい、ありがとうございます。東名と新東名のどちらでも行けますが、どちらを走りますか。……あのぅ、新東名の方が若干速いかもしれませんが、内陸寄りでトンネルが多い。私は東名を走りたいのですが」
「そうだね、私らも景色が見える方がいいね。そうそう、東名の浜松西で降りてもらって、あとはバイパスで××(地名)に行ってもらって、そのあとは道案内します」

都心から静岡・浜松まで。超長距離の旅が始まった(画像:写真AC)



 私は首都高速の途中で一度降りて、ガスを充填(じゅうてん)しました。たまたまそのスタンドに友人がいて、「これから愛知県の手前の浜名湖まで行ってくるよ」とこっそり話すと、「また冗談言って」と笑います。

「いや、ホントだよ」と食い下がると、「本当なのか、それはたまげた」と。それから聞きつけた運転手たちも何人か集まってきて、「遠距離、気を付けろよな」「居眠りしないようにな」と、小さく声を掛けて励ましてくれます。

 普段は競争相手のタクシー運転手も、ここ一番はやはり働く仲間同士。約300kmという大仕事を前に、何だか胸がジーンとしました。

 さて、車はおもむろに首都高に乗り直して渋谷を走り抜け、用賀から東名を一直線です。

長距離の車中でのこと

 これまで長距離の客を何度も乗せて走ったけれど、県境をいくつもまたぐほどの長距離は初めてです。

 車は神奈川の海老名SAと静岡の日本平パーキングエリアでトイレ休憩を取って、浜松西で降りて浜名湖まで。トータル4時間と少しの道中でした。

 タクシー車内という密室で、そんなに長い時間4人きりですから、何かこちらから話し掛けて雰囲気を和らげるべきかなどと最初は思案しましたが、結局ほとんど私は黙ったままでした。

 ときどき両親が息子に小声で何か話し掛けていますが、なるべく聞かないようにと運転に集中します。よほど求められない限り、向こうから話し掛けて来られない限り、特に今回のようなケースは、客のプライベートには立ち入らないように。

東名高速では、横をビュンビュンと追い抜いていく大型トラックにヒヤヒヤ(画像:写真AC)



 とにかく前だけを見て走っていて、一番記憶に残っているのは、大型トラックに追い抜かれるときの風圧のすごいこと。こちらは時速100kmですが、トラックは120kmを軽く超えていると思わる爆走です。

 時折ヒヤヒヤしながらも、とはいえ荷物満載でとにかく先を急ぐ、長距離ドライバーたちのプロ根性。近しい業種の立場なだけに、ただただ脱帽していました。

 家出息子の親不孝は困りものではありますが、若いときというのは誰でもいろいろあるものです。自分もそうでした。失敗をいくつも経験して、大人になっていきます。どうかこの親子にも、いっぱいの幸せが巡りますように……。

 4時間超という長い長い旅程を終えて、何とか3人を送り届けることができました。何度も頭を下げる両親にこちらも頭を下げ返して、家へと戻っていく背中を見送りました。

ラーメン屋の女将さんもビックリ

 浜名湖はうなぎの産地です。遠州灘は波が荒いのに、内側の浜名湖はまったく静かです。釣り宿もあちらこちらにありました。

 このあたりの人は独特の方言もあって、私はラーメン屋で麺をズズーとすすりながら、女将さんと客の土地なまりを聞いていると、あらためてずいぶん遠くまで来たものだと思い、つい女将さんに「私は東京のタクシーです。客を乗せて来ました」と告げてしまいました。

 女将さんも、「ええーーっ!」と鳩がマメ鉄砲をくらったような顔をしてビックリです。

無事に親子を送り届けた後、食べたラーメンがお腹と心に染みた(画像:写真AC)



 それで私は、あらためてさっきの少年のことを思い出していました。

 若い時分の突拍子もない行動は、ときに大人から白い目で見られることもあるものです。「誰のおかげで生活できているんだ!」などと、容赦のない叱責を受けることもあるかもしれません。

 しかし振り返れば、あの4時間の旅で少年は、両親から小言を言われるでもなく(少なくともタクシーの車内では)、目の前の料金メーターがあれよあれよと高額の数字を表示するのを眺めながら、きっと何かしらを感じたはずでしょう。

 大きな出費になりましたが、何かしら意味のある経験になったとも言えます。辛抱強い両親に恵まれた、立派な大人になってくださいと、心の中で願います。

 帰路も安全運転で会社に戻り、当日の売り上げはもちろん文句なしの1等賞。ほかにも営業があって、トータル12万円なり。

 おそらく、1日でこの数字というのは2度とないと思われます。会社2階にある納金所では、私の売り上げを見て口々に「何これ?」「どこに行ったの?」と尋ねられ、それから数日経っても社内で話題になっていました。

 このような長距離の「お化け客」については、それこそ業界の都市伝説めいた話も耳にするものです。最後に紹介するのは、人から聞いた話です。

麻布十番から京都まで……

 何でも、港区の麻布十番から京都まで、2、3か月に一度の間隔で乗ってくる老夫婦がいるのだとか。無線で呼ばずに流しのタクシーを拾うそうです。たまたま出くわした運転手は、さぞかしビックリすることでしょう。

 それにしても、私からすると信じられないような話です。燃料はどうしているのかなぁ、などと考えたり。世の中には驚くようなお金持ちが実際にいるものですね。

※記事の内容は、乗客のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。

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