緑豊かで広大 東京の「大公園」はどのようにして誕生したのか

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緑豊かで広大 東京の「大公園」はどのようにして誕生したのか

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広岡祐

文筆家、社会科教師

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明治維新以降、東京には近代的な公園が次々と誕生しました。緑豊かな東京の大公園は、どのような経緯で誕生したのでしょうか。文筆家の広岡祐さんが解説します。

広さは約24万坪

 桜の名所として都民に親しまれている都立小金井公園は、小金井市から小平市・西東京市・武蔵野市にかけて、80ha(約24万坪)におよぶ面積を誇る都市公園です。

小金井公園入り口(画像:広岡祐)



 明治維新以降、東京には近代的な公園が次々と誕生しました。緑豊かな東京の大公園は、どのような経緯で誕生したのでしょう。その歴史をふりかえってみました。

東京の公園ことはじめ

 明治維新後、東京で初めて誕生した公園は上野・浅草・芝・深川・飛鳥山の5か所。大政奉還から6年後、1873(明治6)年に出された太政官(だじょうかん)布達によって造成されたもので、『旧跡等群衆遊観ノ場所』を『永ク万人偕楽の地』とするという目的を持っていました。この布達で、わが国の公用文書に『公園』の語が初めて登場したのです。

 上野公園と芝公園はそれぞれ寛永寺、増上寺という徳川幕府の菩提(ぼだい)寺の寺域、浅草公園は浅草寺、深川公園は富岡八幡宮(はちまんぐう)の境内、飛鳥山公園は8代将軍徳川吉宗によって整備された庶民の花見の名所と、東京の公園地のスタートは、江戸時代の遺産といえるものでした。

震災復興大公園のひとつ、隅田公園は本邦初の本格的リバーサイドパークだった(画像:広岡祐)

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、帝都東京に未曽有の被害をもたらしました。各所で発生した火災によって、東京市の面積の40%が焼失しています。この惨禍のなかで、実に150万人をこえる市民がさまざまな広場や公園に避難、明治以後に整備された大小の公園は、災害時に大きな役割を果たすことがわかりました。

 あらたな公園の造成は復興事業の大きなテーマとなり、震災復興三大公園と称された隅田公園・浜町公園・錦糸公園のほか、52か所の小公園がつくられていきます。小公園は隣接する小学校とともに整備されたもので、地域住民の利用とともに、必要に応じて小学校の校庭の一部として活用するというアイデアをもっていました。

東京の大緑地計画

 昭和に入り、東京はさらに拡大、人口の増加とともに西郊への発展が続きます。東京府は紀元2600年記念事業として、1940(昭和15)年に大緑地の造成を計画しました。砧(きぬた)・神代・小金井・舎人(とねり)・水元・篠崎の6か所です。

 欧米の都市計画では、都市の過密化とともに、周辺地域に大小の緑地帯を設けるのが一般的になっていました。東京府は東京駅を中心とした半径20㎞の環状緑地帯を設定、緑地設定の条件として、

・都市計画道路や鉄道・軌道(路面電車)に近接すること
・緑地帯の間隔を4~8㎞とすること
・面積を20万坪以上とし、付近の水面や水流に直接させること

などをあげています。

昭和15年の東京都市計画緑地資料図。 舎人緑地、小金井緑地、神代緑地(現・神代植物公園)が見える。国立公文書館デジタルアーカイブより(画像:広岡祐)



 小金井緑地の場合、北側には石神井川が隣接し、南には東西2㎞近くにわたって玉川上水が流れています。ちなみに玉川上水沿道は江戸時代からの桜の名勝地で、のちに小金井公園の代名詞となる桜は、その伝統を受けついだものです。

戦争と公園と

 紀元(皇紀)2600年の年・1940(昭和15)年は盧溝橋事件から3年目で、日中戦争のさなかでした。大緑地計画は戦争による空襲にそなえた「防空緑地」としての役割も担うことになりました。

 大緑地計画の特徴は、それまでの大公園は社寺地や大名屋敷跡、あるいは軍用地だったのに対して、予定地の多くが農地だったことです。

 東京府は短期間で買収を進めますが、大政翼賛のスローガンの下、説明会には軍部も立ち会うなど、かなり高圧的な収用だったといわれています。

大問題になった農地転用

 小金井緑地もまた同様でした。

小金井緑地の碑(画像:広岡祐)



 敷地はほとんどが農地で、買収後は勤労報国隊による整地作業がおこなわれていきます。園内西側には皇居前広場でおこなわれた紀元2600年記念式典の式場として仮設された光華殿が移築され、周辺の9万坪の土地は文部省(現・文部科学省)の設けた「国民錬成所」として使用されました。

 戦局の悪化とともに食糧事情がひっ迫すると、小金井の緑地は食糧増産のために再び農地に転用され、近隣の農家と耕作契約をむすびました。ところが、この農地転用が戦後大きな問題につながります。

 これらの耕作地は、連合国軍総司令部(GHQ)による農地解放の対象になったのでした。公園管理者が不在地主として扱われたのです。強引な土地収用に不満をもっていた農家はこれを歓迎し、実に園地の40%が失われることになりました。

戦後も長く続いた公園整備計画

 1946(昭和21)年、学習院中等科が園内西側に移転、東宮仮御所が設置されて、皇太子(現・上皇陛下)の小金井緑地での勉学生活が始まりました。

 光華殿と周辺の建築物が校舎や学生寮として転用され、このとき着任したアメリカ人家庭教師のバイニング夫人は、光華殿の一室に居住、皇太子殿下に英語を教えています。

小金井公園に隣接する寺院・真蔵院に保存されている、大緑地開放の碑(画像:広岡祐)

 東京都立小金井公園としての開園は1954年1月。その敷地は旧光華殿を中心とした区域で、面積は8.6haと小規模なものでした。

 農地の再買収、戦災復興用の樹木を栽培する苗畑として使用されていた区画の整理など、東京都による公園整備計画は、戦後も長く続いていくことになるのでした。

公園内に保存された貴重な鉄道車両

 小金井公園西側の一角に設けられたSL展示場には、2両の鉄道車両が保存されています。古い客車をひくSLは、スマートな外観から「貴婦人」とよばれたC57形蒸気機関車です。

 1946年の製造後、上越地方から北陸・九州・北海道と全国で活躍、1974年の廃車までの28年間で204万㎞を走り、最後は旭川機関区で働いていました。引退後は国鉄大宮工場で分解され、当時は貨物駅のあった中央線の東小金井駅まで運ばれて、現在の場所で組み立てられました。

SL展示場は土曜・日曜に公開されている(画像:広岡祐)



 機関車につながれた客車にも注目してください。出入り口の扉を手で開けるタイプの古い客車は、昭和の終わりころまで日本各地で見られましたが、保存されている戦前製のスハフ32は、そのなかでも非常に古い車両として知られていました。

 現在同じ形式の車両がもう1両残っていて、そちらはJR東日本高崎車両センターに動態保存され、イベント列車として活躍しています。

 緑豊かな小金井公園。緊急事態宣言によって施設の利用には制限がありますが、木々の間を散策するだけでも心が癒やされます。訪問の際は園内の歴史にも思いをはせていただければと思います。

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