渋谷の東急・西武はいかにして「消費文化の象徴」となったのか――東急本店解体で考える

  • 渋谷駅
渋谷の東急・西武はいかにして「消費文化の象徴」となったのか――東急本店解体で考える

\ この記事を書いた人 /

近藤とものプロフィール画像

近藤とも

ライター、都市生活史研究者

ライターページへ

かつて渋谷の百貨店は消費文化の象徴的存在でした。その理由と背景について、ライターの近藤ともさんが解説します。

東急百貨店本店の解体発表

 2021年5月、東京・渋谷にある東急百貨店本店(渋谷区道玄坂)が、2023年春以降に建物解体工事に着手予定であることが発表されました。

渋谷区道玄坂にある東急百貨店本店(画像:(C)Google)



 百貨店としてまた復活するかどうかは未定とのこと。2020年3月には渋谷駅直結の東横店も閉店しているため、渋谷に残される百貨店は西武渋谷店(渋谷区宇田川町)のみになります。

 かつてこの3店は渋谷の消費文化の象徴的存在でした。それはなぜだったのでしょうか。歴史をふりかえり、理由を探ります。

東京初のターミナルデパート

 小説家・國木田独歩の『武蔵野』(1889年)といえば、読んだことはなくてもその名を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。この作品は、作者の住む武蔵野の風景美などを描いた随筆作品。武蔵野といえば、いまでは武蔵野市やもっと郊外がイメージされますが、実は独歩の武蔵野のモデルは渋谷だったのです。

 かつてそれほどにさびれた里山的な土地だった渋谷。発展するきっかけとなったのは1923(大正12)年の関東大震災です。

國木田独歩『武蔵野』(画像:新潮社)

 震災後に目覚ましく復興した東京では、郊外への人口の分散やそれに伴う郊外の市街化が急速に進展。渋谷は玉川電気鉄道(現在の東急田園都市線の一部)や東京横浜電鉄(東急東横線)、省線山手線(JR山手線)や東京市電、東京市営乗合自動車(バス)などの集まるターミナルとして目覚ましい発展を遂げました。

 東京横浜電鉄は、阪神急行電鉄が梅田駅で経営して成功を収めていた「阪急食堂」を模範とし、1927(昭和2)年末に渋谷駅2階へ直営の「東横食堂」を開業、成功を収めます。また、食料品を中心に取り扱うマーケットを1931年4月に渋谷駅1階に開業しました。

 これらの好調な業績を見て、東京横浜電鉄の専務だった五島慶太は本格的な百貨店の建設を構想。日本初のターミナルデパートである大阪の阪急百貨店に社員数名を派遣して勉強させるとともに、経営者の小林一三のアドバイスを受けました。

 そうして出来上がったのが東京初の本格的なターミナルデパートである東横百貨店。1934年10月日のことでした。

 東横百貨店は年中無休で9時から21時まで営業。店内には食堂や理髪店、写真室、プレイガイド、お買い物相談所、さらには屋上に遊戯施設を備えた、買い物も娯楽も包含した施設でした。第2次世界大戦を経て、1951年にできた名店街「東横のれん街」はその代名詞ともなりました。

本店の成立とBunkamura

 百貨店といえば「高級」というイメージを持っている人も多いかもしれません。しかし、百貨店の中にも序列のようなものがあり、三越や高島屋など、江戸時代の呉服店から業態に転換した百貨店にくらべ、電鉄系の百貨店は格下という位置づけでした。

 そうしたイメージからの脱却を図ったのか、1964(昭和39)年に東急百貨店は、移転が決まった渋谷区立大向小学校の土地を購入、その土地に新しい店舗を建設します。そして、1967年に東急本店としてオープン。この年は、以前に買収して傘下に収めていた日本橋の百貨店・白木屋(しろきや)を東急日本橋店と改称した年でもありました。

1963年頃に撮影された東急百貨店移転前の様子。学校がある(画像:国土地理院)



 東急本店は、渋谷の高級住宅街・松濤の入り口ともいえる場所に位置しています。そのため、松濤居住者を顧客として獲得、若者の街として知られる渋谷では異質な存在感を放っているといえるでしょう。

 そして、1989(平成元)年に本店の駐車場だった場所を利用してつくられたのが「Bunkamura」です。Bunkamuraは1980年代に東急グループが掲げていた「3C戦略」(culture、card、cable〈ケーブルテレビ〉)の中心的プロジェクトとして、文化戦略を具現化したものでした。

 Bunkamuraにはオーチャードホール(音楽ホール)、シアターコクーン(劇場)、ル・シネマ(映画館)、ザ・ミュージアム(美術館)に加え、パリの老舗カフェであるドゥ マゴの海外提携店第1号となったドゥ マゴ パリも併設され、またたく間に文化の一大発信地となったのでした。

熾烈を極めたライバルとの争い

 Bunkamuraが開業した当時、渋谷にはもうひとつ渋谷カルチャーを背負う存在として知られたものがありました。それが当時はセゾングループ運営の「パルコ」です。

 週刊グラフ誌「アサヒグラフ」の1990年3月23日号「渋谷・新地図 変転激しい造形の乱舞する街」には渋谷区における東急と西武(セゾン)についての特集が組まれています。当時の渋谷は、先端のカルチャーの担い手たちにとって、注目の的であり実際にリーダー的存在であったといえるでしょう。

 パルコはもともと1953(昭和28)年に池袋ステーションビルとしてつくられたのち、1969年に西武百貨店の新参加とともにパルコ1号店となりました。

 そんなパルコが渋谷にパルコPart1をオープンしたのが1973年。その後、Part1、2、3、QUATTRO by PARCOと別館も続々開店しました。パルコ劇場やスペイン坂スタジオも備え、東急よりも先んじて「西武 = セゾングループ」は渋谷のカルチャーを掌握していたといえます。

渋谷区宇田川町にある西武渋谷店(画像:(C)Google)

 西武渋谷店は現在、そごう・西武の運営。旧西武百貨店時代にはシブヤ西武とも呼ばれ親しまれた店舗です。渋谷スクランブル交差点を渡ってすぐの場所にありますが、駅直結の東急東横店とくらべると利便性が悪いとされ、売り上げはさほど上がっていませんでした。

 しかし、パルコの人気とパルコにちなんだ公園通り(パルコはイタリア語の「公園」の意味)のオシャレ化と盛り上がりの影響で、渋谷西武も人気が上昇。庶民的な雰囲気の東急東横店と、駅から離れ高級感を漂わせる東急本店とのちょうどよい落としどころとして、渋谷近辺のOLの「聖地」となったのです。

池袋でも覇権を争った?

 ここまで見てきて、西武が突然渋谷に襲い掛かったと思われた人もいるかもしれません。しかし、実は関東大震災後にすでにその萌芽(ほうが)はあったのです。

 セゾングループと西武鉄道グループそれぞれを率いた堤清二と堤義明の父は堤康次郎。滋賀県出身のいわゆる「近江商人」でした。彼が創設した箱根土地(のちのコクド)が関東大震災後に被災した名店を誘致してつくったのが、現在でも道玄坂をのぼったところにある百軒店商店街。東急本店とBunkamuraを後藤慶太が坂の上につくったことは、百軒店への対抗心だったからともいわれています。

百軒店商店街の入り口(画像:(C)Google)



 実は、東急もかつて池袋に百貨店を開設していた時期があります。1950(昭和25)年に開店後、1964年に東武百貨店に売却し撤退しました。

 なお、LOFTは1987年にシブヤ西武ロフト館としてオープン。1978年にオープンの東急ハンズ渋谷店(東急ハンズとしては藤沢店、二子玉川店に続き3店舗目)とともに渋谷の雑貨文化を率いてきました。しかし、現在は百貨店から独立。渋谷の西武百貨店はいまや「丸腰」といえる状態で戦っているのかもしれません。

西武B地下の意外な店舗とは

 西武渋谷店のA館とB館は渡り廊下でつながっていますが、地下ではつながらず、井の頭通りを渡らねばなりません。これは暗渠(地下水路)があるため。ちょっとしたことですがこうした不便さがB館を地味な存在にしているのかもしれません。

 そんなB館に人気の店舗があることをご存じでしょうか。それがB館の地下ある「Johnnys’ ISLAND STORE」がオープン。ジャニーズ事務所がジャニーズJr.のグッズのみを取り扱うショップとして、2019年にオープンしました。事前予約制でなかなか入ることができない人気店で、渋谷駅前の立地が役立っています。

 東急東横店の閉店、東急本店の取り壊し計画の発表で、渋谷の百貨店文化は変わりつつあります。1999(平成11)年の東急日本橋店の閉店時、閉まるシャッターとその前で深くお辞儀をする店員たちの姿は、衝撃的なものとして報道されました。

渋谷の街の様子(画像:写真AC)



 それから20年余り。消費生活の変化や景気の波とともに百貨店の閉店が増え、そうした光景はめずらしいものではなくなりました。新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、百貨店がさらに苦境に立たされていることはいうまでもありません。

 百貨店を基盤に、Bunkamuraとパルコ、ハンズとロフトを要して渋谷カルチャーのシンボルとなった東急と西武(セゾン)。そしていま渋谷から百貨店を引き上げつつあるように見える東急と、経営母体を変えながらも残る西武――。

 渋谷カルチャーの立役者たちは、百貨店をどのように導いていくのでしょうか。

関連記事