渋谷の東急・西武はいかにして「消費文化の象徴」となったのか――東急本店解体で考える
2021年6月13日
知る!TOKYOかつて渋谷の百貨店は消費文化の象徴的存在でした。その理由と背景について、ライターの近藤ともさんが解説します。
本店の成立とBunkamura
百貨店といえば「高級」というイメージを持っている人も多いかもしれません。しかし、百貨店の中にも序列のようなものがあり、三越や高島屋など、江戸時代の呉服店から業態に転換した百貨店にくらべ、電鉄系の百貨店は格下という位置づけでした。
そうしたイメージからの脱却を図ったのか、1964(昭和39)年に東急百貨店は、移転が決まった渋谷区立大向小学校の土地を購入、その土地に新しい店舗を建設します。そして、1967年に東急本店としてオープン。この年は、以前に買収して傘下に収めていた日本橋の百貨店・白木屋(しろきや)を東急日本橋店と改称した年でもありました。

東急本店は、渋谷の高級住宅街・松濤の入り口ともいえる場所に位置しています。そのため、松濤居住者を顧客として獲得、若者の街として知られる渋谷では異質な存在感を放っているといえるでしょう。
そして、1989(平成元)年に本店の駐車場だった場所を利用してつくられたのが「Bunkamura」です。Bunkamuraは1980年代に東急グループが掲げていた「3C戦略」(culture、card、cable〈ケーブルテレビ〉)の中心的プロジェクトとして、文化戦略を具現化したものでした。
Bunkamuraにはオーチャードホール(音楽ホール)、シアターコクーン(劇場)、ル・シネマ(映画館)、ザ・ミュージアム(美術館)に加え、パリの老舗カフェであるドゥ マゴの海外提携店第1号となったドゥ マゴ パリも併設され、またたく間に文化の一大発信地となったのでした。
熾烈を極めたライバルとの争い
Bunkamuraが開業した当時、渋谷にはもうひとつ渋谷カルチャーを背負う存在として知られたものがありました。それが当時はセゾングループ運営の「パルコ」です。
週刊グラフ誌「アサヒグラフ」の1990年3月23日号「渋谷・新地図 変転激しい造形の乱舞する街」には渋谷区における東急と西武(セゾン)についての特集が組まれています。当時の渋谷は、先端のカルチャーの担い手たちにとって、注目の的であり実際にリーダー的存在であったといえるでしょう。
パルコはもともと1953(昭和28)年に池袋ステーションビルとしてつくられたのち、1969年に西武百貨店の新参加とともにパルコ1号店となりました。
そんなパルコが渋谷にパルコPart1をオープンしたのが1973年。その後、Part1、2、3、QUATTRO by PARCOと別館も続々開店しました。パルコ劇場やスペイン坂スタジオも備え、東急よりも先んじて「西武 = セゾングループ」は渋谷のカルチャーを掌握していたといえます。

西武渋谷店は現在、そごう・西武の運営。旧西武百貨店時代にはシブヤ西武とも呼ばれ親しまれた店舗です。渋谷スクランブル交差点を渡ってすぐの場所にありますが、駅直結の東急東横店とくらべると利便性が悪いとされ、売り上げはさほど上がっていませんでした。
しかし、パルコの人気とパルコにちなんだ公園通り(パルコはイタリア語の「公園」の意味)のオシャレ化と盛り上がりの影響で、渋谷西武も人気が上昇。庶民的な雰囲気の東急東横店と、駅から離れ高級感を漂わせる東急本店とのちょうどよい落としどころとして、渋谷近辺のOLの「聖地」となったのです。
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