新宿の東京都庁、実は「晴海」にできていたかも? 地元民も驚いた幻の移転計画とは

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新宿の東京都庁、実は「晴海」にできていたかも? 地元民も驚いた幻の移転計画とは

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真砂町金助

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現・東京都庁は西新宿にありますが、歴史が変わっていたら、湾岸エリアにあったかもしれなかったのをご存じでしょうか。フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

都庁の新宿移転は1991年

 東京都庁が新宿区西新宿に移転したのは、1991(平成3)年4月のことです。それ以前は、1889(明治22)年から千代田区丸の内にありました。1957(昭和32)年に完成した丹下健三設計の旧都庁第1庁舎を覚えている人は、もはやそう多くないでしょう。

新宿区西新宿にある東京都庁(画像:写真AC)



 都庁の新宿移転は、1979(昭和54)年に就任した鈴木俊一都知事が推進し、決定しました。移転の背景には庁舎の老朽化に加え、内部が狭かったために有楽町駅周辺に第6庁舎まで分散して不便だったことがあげられます。

 しかしこの都庁、もしかしたら新宿ではなく湾岸、東京五輪選手村の建物が話題になっている晴海にあったかも知れないのです。

「月島4号地」への移転計画

 1943(昭和18)年の東京都成立以前、「月島4号地」と呼ばれていた現在の「晴海」に東京市庁舎を移転する計画が持ち上がりました。当時は現在の東京都にあたる東京府があり、東京都区部にあたる地域は東京市でした。

1932(昭和7)年に発行された地図。赤枠内が「月島4号地」(画像:国土地理院)

 現在は東京都の下に区が設置されていますが、当時は府の下に市があり、各区(最終的に35区)がある構造でした。東京市庁に独自の庁舎はなく、東京府庁舎内に開設されており、戦後の都庁と同じく有楽町駅周辺に散在していました。

 そこでに東京市会は1922(大正11)年、「市総合庁舎新築二関スル建議」を可決します。ここでは、帝都の市庁舎として、外観が不体裁であるばかりか事務の能率を殺しているとして、欧米都市のように市の代表建築物となるような、華麗で規模が大きく市民にも便利な庁舎の建築を満場一致で可決しています。

東京市長の経歴

 こうして始まった市庁移転計画は、1933(昭和8)年就任の牛塚虎太郎市長のもとで月島4号地に移転することに決まりました。

東京市長を務めた牛塚虎太郎(画像:射水市)



 1879(明治12)年に富山県に生まれた牛塚は、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学)を卒業後、官僚となり、岩手県県知事や群馬県知事を歴任。岩手県知事時代には県名を「巌手」から「岩手」へ変更しています。

 そして1929年からは東京府知事を務め、その後、東京市長に選ばれています。東京市長としての業績は1940年の東京五輪の誘致です。東京開催に消極的だった当時のバイエ・ラトゥール国際オリンピック委員会(IOC)会長を口説き、イタリアのムッソリーニ首相に要請。ライバルだったローマの候補地辞退を取り付けたのは、牛塚の業績です。

 なお2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』では、きたろうさんが牛塚虎太郎を演じていました。

庁舎の所在地として理想的だった月島4号地

 牛塚が市長に就任する2年前の1931年に完成したばかりの月島4号地は、工場地帯として発展している月島の先にある広大な空き地でした。

 東京五輪と万国博覧会の会場としても決まり、開催後は発展が見込まれていました。また、東京湾をもっと先まで埋め立てて土地が広がることを考えると、当時、月島4号地は庁舎の所在地として理想的だったのです。

 1934年には移転に向けてコンペ「東京市庁舎建築懸賞競技」が実施され、171通の応募のなかから、宮地二郎が1等賞に選ばれます。

晴海トリトンスクエア(画像:(C)Google)

 庁舎の建築予定地は現在の晴海トリトンスクエア(中央区晴海)のある土地で、資料「東京市庁建設敷地の決定」によれば、庁舎の前には地下鉄もできる予定でした。

移転反対案が増加

 ところが、この計画には次第に暗雲が立ちこめます。1933年の東京市会では移転反対が144人中わずか12人で可決されましたが、「市庁舎を置くにはふさわしくない」という意見が力を増してきたのです。

 1935年9月の東京市会で、神田区選出の桑原信助市議(のち都議会議長)は舌鋒鋭く移転案を問いただしました。問題点は次のとおりです。

・「萬金ノ賞ヲ賭ケテ」コンペを行っただけで、予算案も仕様書もまったく未定のまま
・市庁舎移転計画によって月島4号地の土地価格が値上がりし、売却によって東京市は利益を得られるとしていたが、まったく値上がりしていない
・交通路が、ほぼ晴海通りから勝どき橋(当時は建設中)を渡るルートに限られる

 その上で桑原氏は、

「市長は百年の大計というが、木更津あたりまで埋め立てない限り向こう100年どころか300年たっても月島が東京の中心になることはあり得ない」
「月島は検疫所や税関を設置して玄関になるかも知れないが、東京の中心にはならない」
「板橋からだと車で2時間以上かかるところにある市庁舎がどうして<吾ラノ殿堂>になるのか」

と、徹底的に非難しています。

現在の月島・勝どき・晴海(画像:国土地理院)



 現在の月島に住む人たちが聞いたら怒りそうな内容ですが、当時はあまりに東京の外れで、交通網の整備にも予算が必要な月島はふさわしくないと考えられたのです。そして東京市の殿堂は丸の内にあるべきだとして、桑原氏は当時空き地になっていた大蔵省(現・財務省)跡地や印刷局跡地などを提案しています。

 質問の最後で桑原氏は

「市長ハ虚心坦懐(たんかい)速ヤカニ兜ヲ脱ギ、月島案を撤回スベシ」

とまで述べています。

地元紙も移転に微妙な反応だった

 当時の月島の様子を記録した『月島発展史』(京橋月島新聞社、1940年)でも、わずかに移転問題に触れており、

 当時の月島の様子を記録した『月島発展史』(京橋月島新聞社、1940年)でも、わずかに移転問題に触れており、



「大東京を統括する市役所の位置としては一應邊陬(国の果て、辺境)の感がある」

と記しています。どうやら近隣に住む人たちにとっても、月島4号地に市役所を持って来るのはやり過ぎと映っていたようです。

 こうしてコンペまで行ったにも拘わらず牛塚市長の退任とともに、移転案は立ち消えになります。

 戦後、京橋区と日本橋区が合併して中央区ができる際、京橋区は先見の明(めい)があったのか、現在の豊洲あたりまでが中央区にならないかと打診しています。しかしこのときも、区役所が晴海周辺になり不便ということで頓挫しています。

 晴海周辺が湾岸エリアと呼ばれ、タワーマンションの立ち並ぶ「住みたいエリア」になるのは、その後も長い年月が必要だったのです。

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