お魚イメージが強い「築地」 実はかつて海軍で栄えた土地だった!

一般的に「築地 = 魚の街」ですが、かつてはそうではありませんでした。代わりにあったのは海軍関連施設。フリーライターの大居候さんが解説します。


海軍との関わりは江戸末期から

 築地と海軍が関わるのは江戸末期のことです。

 外国船の来航で軍制改革が迫られるなか、ペリーの来航を受けた幕府は1854(安政元)年、旗本・御家人に剣術・槍術(そうじゅつ)・砲術などを学ばせるために、浜離宮の南側に講武所(武芸訓練機関)を設けました。

 同時期に幕府は海軍力の強化を図り、1855(安政2)年に海軍教育を施す長崎海軍伝習所を設けています。これに続いて1857年、講武所に軍艦教授所が設けられました。この組織はさらに軍艦操練所と改称されて、長崎海軍伝習所に代わって幕府の海軍教育の中心を担うことになります。

軍艦操練所跡(画像:(C)Google)

 現在、晴海通り沿いには「軍艦操練所跡」の説明板が立っていますが、その敷地は築地市場の地域をほぼ使った広いものでした。当初は幕臣を対象にした教育が行われていましたが、後に諸藩からの人材も受け入れ、外国人教師も使って、航海術や水練、蒸気機関の取り扱いなどが熱心に行われました。

 1864(元治元)年に火災に遭うもすぐに再建。1866(慶応2)年には「軍艦所」と改称し、教育だけでなく海軍の業務全般を扱う「海軍所」に改称されています。しかし1867年にはまた火災に遭い、施設は浜御殿(現・浜離宮)に移転しました。

海軍のエリート教育が行われた築地

 明治になり、新政府は築地に海軍関連の機関を次々に設置します。

 始まりは1869(明治2)年に広島藩の屋敷を使った海軍操練所からでした。この組織は翌年には海軍兵学寮に改称。1876年には海軍兵学校となります。のち1888年に江田島に移転するまで、海軍のエリート教育はこの築地で行われていました。

 銀座から築地に抜ける道路に「みゆき通り」がありますが、これは海軍兵学校があった時代に明治天皇が行幸(ぎょうこう、みゆき)に使う道だったことに由来しています。命名は、1940年東京オリンピックの前にされました。

 現在の国立がん研究センターの敷地には海軍軍医学校もありました。現在は、海軍兵学寮跡とともに碑が建っています。海軍軍医学校は1873年に海軍病院付属学舎として設立、その後組織改編を経て、1908年に築地にやってきました。

海軍経理学校の碑(画像:大居候)

 もうひとつ海軍経理学校も1888年の設立後、1907年に築地にやってきました。学校の校舎は1932(昭和7)年に勝どき橋のそばに新築された経緯からか、現在は勝どき橋のたもとに碑が建っています。

海軍省も一時設置


【画像】明治初期、海軍省があった頃の築地

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