かつて東京に非営利の「質屋」があった! 金利は低め、人情でお金を借りられた時代を振り返る
2021年5月13日
ライフかつて都内に、区役所が運営する「公益質屋」があったのをご存じでしょうか。いったいどのような質屋だったのでしょうか。20世紀研究家の星野正子さんが解説します。
高度成長期を過ぎてもあった需要
現代のようにクレジットカードや消費者金融が発達しておらず、支払いは現金が当たり前だった時代に、どうしても現金が必要なときの手段として公益質屋は定着していきます。なお、戦前は鍋や釜を持ち込んでくる人も多かったといいます。
東京の公益質屋の最盛期は、終戦後から1964年東京オリンピックの頃まで、店舗数は40店を数えました。

練馬区では1952年、東京都から公益質屋が移管されています。この年の貸し付けは3545口でしたが、ピークの1956年は6230口に達しています。そして高度成長期を過ぎても、生活に困窮した人が頼る先として公益質屋はよく利用されていました。
1981年発行の『練馬区史 現勢編』は区内の公益質屋の動向をよく分析しており、
「その半分以上が給与生活者でしめられていることは(昭和)二八年当時も現在も同じである」
「大都市での給与生活者や無職者の生活がいかに不安定かをものがたっている」
とし、質草(質に置く品物)にカメラやテープレコーダー、装身具などが増えていることについて、
「公益質屋創設当時から比べると、家具や装身具などのものはあるけれども貧しいという近年の世相を反映している」
と記しています。
かなり痛烈な分析ですが、困ったときに気軽に頼れる役所の窓口として認識されていたことがわかります。
減少の背景にあった消費者金融
しかし是非は別として、質草のいらない消費者金融の発展とともに公益質屋は需要を失い、次第に数を減らしていきます。
『朝日新聞』1996年9月5日付ではこの年に閉店した大田区蒲田の公益質屋を取材していますが、この時点で都内に残る公益質屋は6店舗だけになっていました。
蒲田は地域性ゆえに需要があったのか、ピーク時には年間約1万4000口の貸し付けが行われていましたが、閉店時には年間800口程度まで減少していたといいます。

その後、1999年には葛飾・港・台東・目黒区の4店まで減少しています。
おすすめ

New Article
新着記事
Weekly Ranking
ランキング
- 知る!
TOKYO - お出かけ
- ライフ
- オリジナル
漫画