黒い溶岩は家も車も飲み込んだ――1983年「三宅島大噴火」 今も残る自然の爪痕とは
約20年ごとに噴火を繰り返す東京・三宅島。そんな同島に残った「爪痕」を紀行作家の斎藤潤さんが歩きました。
噴火の生々しい体験を語る元校長
溶岩の防波堤となって流れを食い止めたものの、ほとんど飲み込まれてしまった阿古小中学校の廃墟は鬼気迫るものでした。辛酸をなめた地元の人には申し訳ないが、火山の脅威を身近に感じるためにも、ぜひ多くの人に見てもらいたい光景でした。

当時小学校の校長をしていた窪寺さんが、しみじみとした口調で語ってくれました。
「昭和58年10月3日の噴火のとき、私は阿古小学校にいたんですよ。ポッポッと白い湯気が上がってしばらくすると、窓がビリビリ震えたんです。そのときは砂粒が噴き出しているように見えた岩は、人が抱えきれないくらい大きなものでした。それが、ポーンポーンですよ。小学校は大丈夫、と言われていました。私も、まさかここまで溶岩はくるまいと思っていたら、アッという間に迫ってきて、慌てて重要書類をもって漁船で避難したんです」
至るところ火山の痕跡だらけという島にあっても、阿古は噴火の多発地域で、火山にまつわる神社がたくさんあると言います。火戸寄(ほどり)神社など、名前からしていかにもそれらしい感じがします。
「八十司(はづじつし)神社は、噴火した場所に次々と神社を祭っていったところ、あまりにも多くなり過ぎたためこの一社にまとめたものです」
噴火常襲地帯らしい、なんともすさまじい話ではないですか。
「次は富賀(とが)神社ですが、残念ながら下車できません」
間もなく、高濃度地区立ち入り禁止の看板が立っていました(現在は解除)。事代主命(ことしろぬしのみこと)が葬られた場所という富賀神社は、三宅でも重要な神社のひとつで、島人にもなじみ深く、初詣の参拝客も多い場所です。
「あ~あ、こんなになっちゃったんだ」
神社周辺の山は立ち枯れた白骨樹で覆われ、境内は整備中なのでしょう、木はほとんど伐採され荒涼としていました。
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