東京の歴史ある橋のたもとが必ず「広場」や「公園」になっているワケ

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東京の歴史ある橋のたもとが必ず「広場」や「公園」になっているワケ

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出島造

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東京の栄えたエリアを散歩していると、橋のたもとに小さな公園や広場がよく設けられています。いったいなぜでしょうか。フリーライターの出島造さんが解説します。

「橋詰広場」とは何か

 東京の歴史あるエリアを散策していると、橋のたもとに小さな公園や広場が設けられているのをよく見ます。決まってその形は三角形や台形。このようなスペースは、一般的に「橋詰広場」と呼ばれます。

 橋詰広場は橋を建築する際、必然的に発生していました。江戸時代以前は橋を架ける際に費用を節約するため、両岸の土手部分を川に出っ張らせて橋を短くしたり、道路よりも橋の部分を狭くしたりすることが多く行われてきました。

 このため、両岸の橋のたもとには空きスペースができます。こうしてできたのが橋詰広場だったのです。

街の発展とともに利用形態も進化

 こうしてできた橋詰広場は公共のオープンスペースとして、さまざまな用途に利用されました。

橋のたもとにある都内の公園(画像:出島造)



 例えば、江戸時代初期の寛永年間に制作された『江戸図屏風(えどずびょうぶ)』では日本橋周辺の風景に橋詰広場が描かれています。ここでは、つじ説法や勧進をしている僧侶や大道芸人、そして高札場(こうさつば。幕府の政策や禁令などを掲示した施設)が描き込まれています。

 このことからも、大勢の人が行き交う橋詰広場は情報を知らせる場や、娯楽を楽しむ場として利用されていたことがわかります。

 橋詰広場の利用は、時代とともにさらに活発になります。

 江戸時代後期の天保(てんぽう)年間に刊行された『江戸名所図会』は、当時の江戸の姿を詳細な絵とともに記録した資料として知られています。

 そんな『江戸名所図会』の日本橋の様子を見ると、橋詰広場には高札場だけでなく、

・番屋(番人の詰めている小屋)
・半鐘(火事、天災、泥棒などを知らせるための鐘)

といった公共設備と並んで、

・床見世
・露店
・茶屋

なども軒を連ねています。

 橋は必然的に人が集まる場所ですから、江戸の街の発展とともに利用形態も進化していたことがわかります。

関東大震災後の復興計画で注目

 しかし明治維新を迎えると、橋詰広場はその地位を失います。

 明治政府は1873(明治6)年、橋詰広場に店を設置することを禁止。これによって、経済活動の場としての橋詰広場はピリオドを打ちました。

 また工法が発達したことで、橋の両岸の道路幅を維持したまま橋を建設できるようになったため、架橋時に橋詰広場が発生することもなくなったのです。

 しかしそれ以降も、両岸には橋詰広場が設置され続けました。なぜなら橋詰広場を設けることで、災害時の一時避難場所や交番など、公共施設の用地が確保できたからです。

橋のたもとにある都内の公園(画像:出島造、(C)Google)



 東京では、1923(大正12)年に発生した関東大震災の復興計画で、橋詰広場の設置が制度として定められます。

 計画ではひとつの橋に対して、原則として4か所の橋詰広場を設けることが決められました。さらに復興計画では、橋詰広場に

・巡査派出所
・共同便所
・ポンプ

などの設置を定めています。

 現在、橋のたもとに交番や防災倉庫、トイレが整備されているのは、もとをたどれば震災復興計画に由来するものといえます。

 防災目的で制度化された橋詰広場ですが、当初は東京市(後の東京都)の管理下にありました。しかし戦後には幹線道路以外は各区の管理となり、防災だけでなく公園としての整備も進むようになりました。

 整備の方針は区によって異なりましたが、中央区はなぜか公衆トイレが多いという特徴があります。その後、橋詰広場を設ける制度は1958(昭和33)年の法改正で消滅したため、東京都の都市計画で使われなくなりました。

 そのようなわけで、橋詰広場が残っているのは都内でも古くから栄えた地域の方が多いのです。

橋の広場に歴史あり

 なにより興味深いのは河川が埋め立てられた後も橋詰広場の土地がそのままの形を保っているケースが多いことです。今回は、中央区築地4丁目の様子を見てみましょう。

 この地域はかつて築地川が流れており、門跡橋という橋が架かっていました。今でも晴海通りの土地が少し盛り上がっているのは橋のあった名残で、現在も小売り店など約60軒が入居する施設「築地魚河岸」(築地6)の傍らには三角形の土地が残っています。

築地の残る三角形の土地と、1963年頃の航空写真(画像:出島造、国土地理院)



 これがかつての門跡橋の橋詰広場の名残です。土地の地番が記された地図などを見ると「道」という表記で都道の一部として橋詰広場が残っていることがわかります(都の建設事務所で閲覧できます)。

 普段なにげなく歩いている橋の広場にも歴史があるのです。もしも近所の橋を渡るときに橋詰広場を見つけたら、その歴史を調べて見ると面白いかも知れません。

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