東京の歴史ある橋のたもとが必ず「広場」や「公園」になっているワケ
2021年5月1日
知る!TOKYO東京の栄えたエリアを散歩していると、橋のたもとに小さな公園や広場がよく設けられています。いったいなぜでしょうか。フリーライターの出島造さんが解説します。
関東大震災後の復興計画で注目
しかし明治維新を迎えると、橋詰広場はその地位を失います。
明治政府は1873(明治6)年、橋詰広場に店を設置することを禁止。これによって、経済活動の場としての橋詰広場はピリオドを打ちました。
また工法が発達したことで、橋の両岸の道路幅を維持したまま橋を建設できるようになったため、架橋時に橋詰広場が発生することもなくなったのです。
しかしそれ以降も、両岸には橋詰広場が設置され続けました。なぜなら橋詰広場を設けることで、災害時の一時避難場所や交番など、公共施設の用地が確保できたからです。

東京では、1923(大正12)年に発生した関東大震災の復興計画で、橋詰広場の設置が制度として定められます。
計画ではひとつの橋に対して、原則として4か所の橋詰広場を設けることが決められました。さらに復興計画では、橋詰広場に
・巡査派出所
・共同便所
・ポンプ
などの設置を定めています。
現在、橋のたもとに交番や防災倉庫、トイレが整備されているのは、もとをたどれば震災復興計画に由来するものといえます。
防災目的で制度化された橋詰広場ですが、当初は東京市(後の東京都)の管理下にありました。しかし戦後には幹線道路以外は各区の管理となり、防災だけでなく公園としての整備も進むようになりました。
整備の方針は区によって異なりましたが、中央区はなぜか公衆トイレが多いという特徴があります。その後、橋詰広場を設ける制度は1958(昭和33)年の法改正で消滅したため、東京都の都市計画で使われなくなりました。
そのようなわけで、橋詰広場が残っているのは都内でも古くから栄えた地域の方が多いのです。
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