桜島の噴火は他人事ではない かつて東京都を襲った「大惨事」の記憶

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桜島の噴火は他人事ではない かつて東京都を襲った「大惨事」の記憶

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大島とおる

離島ライター

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2021年4月25日(日)未明、鹿児島県の桜島で爆発的噴火が発生。東京に住む私たちにとっても、決して無縁の話ではありません。かつて東京でも、多くの犠牲を出す大噴火がありました。フリーライターの大島とおるさんが解説します。

東京都は21もの活火山を有している

 鹿児島県・桜島の南岳山頂火口で爆発的な噴火が発生し、全国ニュースとなっています。

 桜島といえば過去数えきれないほど噴火していますが、2021年4月25日(日)午前1時過ぎの噴火は規模が大きく火砕流が約1.8km流れ下りたことから、気象庁は噴火速報を発表し警戒を強めています。

気象庁が発表した、2021年4月25日1時9分の桜島・南岳山頂火口の噴火の状況(画像:気象庁)



 火口から2kmあまりのところには人が住んでる桜島ですから、火砕流のみならず、噴石などへの警戒は気を抜けません。

 さて、東京にとっては遠い話のように感じられる火山活動ですが、東京人には決して無縁の話ではありません。東京都は実に21もの活火山を有する火山の多い自治体なのです。それが伊豆諸島と小笠原諸島にある火山群です。

 21の活火山のうち有史以来噴火の記録がある火山は18座。うち7座は気象庁が常時観測火山としています。

 常時観測火山とは気象庁の火山監視・警報センターが地震計や高感度カメラ、GPSを用いて24時間体制で観測をしている火山で、全国では50座が対象となっています。全国の監視体制に置かれている火山の14%がある東京都は、かなり火山の多い自治体ということができるでしょう。

 近年は、2020年に近くの海底にあった火口からの噴火で新島が形成され、もとの島と合体して面積を拡大している西之島が話題になりました。これは自然の巨大なエネルギーを感じさせる好例です。自然の雄大なロマンを感じさせる面もある火山ですが、噴火は時として甚大な被害を及ぼします。

明治35年、伊豆諸島・鳥島が噴火

 過去、東京都の火山活動は多くの人々が命を失う甚大な被害をもたらしています。例えば、1902(明治35)年の伊豆諸島の鳥島の噴火がそれです。八丈島から南へ200kmに位置する鳥島はアホウドリの繁殖地となっている無人島です。

日本の海域火山データベース(画像:海上保安庁)



 明治時代、アホウドリは現在よりも数が多く島を覆い尽くすほどだったといいます。開拓精神を持つ人が多い明治時代、この島は新天地での成功を夢見る人たちの格好の入植地となりました。

 この島のアホウドリの羽毛に目を付けた八丈島出身の実業家・玉置半右衛門は東京府から鳥島を借りる許可を得て、アホウドリの捕獲に乗り出したのです。

 1887(明治20)年に人足と共に島に上陸した半右衛門は島に集落を設けて開拓に乗り出します。集落は半右衛門の名前にちなみ「玉置村」と名付けられました。牛が持ち込まれ放牧が行われたり、カツオブシづくりも行われましたがメインは、アホウドリの捕獲です。当時、羽毛はクッションなどの材料として欧米に高値で輸出できたからです。

 人を恐れないアホウドリの捕獲は容易で、数十万羽のアホウドリが乱獲されます。収穫された羽毛で半右衛門は全国の長者番付の名を連ねる時の人となりました。

 しかし、1902年8月、島を悲劇が襲います。島にそびえる硫黄山が突然大噴火したのです。

 通信手段がない当時ですから、噴火の詳しい状況はわかっていません。記録によれば、同年8月7日に小笠原航路の兵庫丸が小笠原諸島に向けて同島を出港したときにはなにも異常がなかったとされています。

住民、家屋、家畜がほぼ全滅

 その後、数日のうちに始まった噴火は山が形を変えるほど大規模なもので、海岸は水蒸気爆発に見舞われ、海底噴火も発生しました。記録によると噴火は同10日に付近を通りがかった愛坂丸という船の目撃が最初で、島からは噴煙が立ち上がり海には家の残骸などが浮いているだけだったとされます。

 16日に小笠原諸島から戻ってきた兵庫丸が見たのは、150人いた住民も家畜も全滅した島でした。当時の『東京日日新聞』には

「絶えず汽笛を以て住民を呼べども更に人影及家屋を見ず」
「海岸土砂崩壊湾形全く変じ其惨状言語に尽し難く実に惨憺を極む」

という船長の報告が掲載されています。

 唯一、7日に所用があり兵庫丸に乗って父島へ向かった人だけが助かったと言われています。

 その後も半右衛門は再入植を試みて人を送り込みますが、乱獲でアホウドリの数は激減。再び噴火も起こったために1939(昭和14)年に、ついに東京府知事の命令で残っていた島民は全員退去することになりました。

無人島となった鳥島(画像:写真AC)



 悲劇は鳥島だけではありません。海底火山である明神礁では1952(昭和27)年の噴火の際に観測に向かった海上保安庁の測量船・第五海洋丸は、突然の噴火に巻き込まれて消息を絶ちました。調査船が噴火に巻き込まれるという前代未聞の惨事は、海底火山の恐ろしさを人々に目の当たりにさせるものとなりました。

「人間は自然の猛威に勝てない」

 海図の刊行などを行っている日本水路協会の機関誌『水路』1984年9月号は「第五海洋丸追悼号」と題して、この悲劇を教訓に海底火山の調査と安全重視の対策が進んだことが記されています。

 ここで海上保安庁の測量船・拓洋(初代、現在は2代目が運用中)の中川久氏は「いかに科学技術が進歩しようとも、このか弱い人間が自然の猛威に立ち向かって、それに勝てるわけがない」と記しています。

 この悲劇の教訓は今も生きていて、海上保安庁水路部に設けられていた追悼の場である五海洋会館は、現在も江東区青海の海洋情報資料館で存続しています。

 これまでも、東京都では伊豆大島や三宅島の噴火にともなう、全島民の一時避難など最新の注意を払った施策が実施されてきています。巨大な自然の爆発である火山の噴火が、いかに甚大な被害をもたらすかが、語り付かれているからにほかなりません。

 まだ人命や財産に被害がないからといっても、安心してはいけない。なにより、東京都も火山の被害からは無縁ではないことをあらためて考えました。

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