墨田区「両国」から離れた中央区になぜか両国郵便局があるワケ

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墨田区「両国」から離れた中央区になぜか両国郵便局があるワケ

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大居候

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両国と言えば、一般的に両国国技館のある墨田区両国です。しかし川を挟んだ東日本橋に両国郵便局という郵便局があります。いったいなぜでしょうか。フリーライターの大居候さんが解説します。

東日本橋なのに両国とは?

 浅草橋駅を南へ少し下ったところに架かる浅草橋を渡ると、左手すぐの場所に両国郵便局(中央区東日本橋)があります。

 この郵便局、名前は「両国」ですが、住所はなぜか中央区東日本橋。郵便局の東にある、隅田川に架かる両国橋を渡ると、おなじみの「墨田区両国」があります。

 東日本橋なのに両国――いったいなぜでしょうか。郵便局の名前の由来を調べてみました。

「明暦の大火」とその被害者たち

 現在、両国と言えば墨田区両国、すなわち隅田川の東側を指します。しかし、両国はかつて隅田川の東西両岸の地域に広がる地名で、むしろ現在の東日本橋がその中心地でした。

両国郵便局と墨田区両国(赤枠内)の位置関係(画像:(C)Google)



 両国の地名は、この場所がもともと国境だったことに由来します。

 1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火」の際、隅田川に橋がなかったことから、多くの人が川に阻まれて亡くなりました。幕府はそれまで江戸の防衛のため、千住大橋よりも隅田川下流に橋を架けることを認めていなかったのです。

 このとき、火が迫った小伝馬町の牢屋(ろうや)から逃がされた囚人たちが、火のまわっていない浅草方面へ押し寄せました。そのため、現在の浅草橋駅付近にあった浅草見附(城門)の番人は略奪を恐れて門を閉ざしてしまいます。

 逃げていた人たちは避難路をふさがれ、後から来る人に押されて大混乱になりました。その結果、多くの人たちが隅田川に押し出されて水死しました。

橋が建設、大橋から両国橋へ

 この事態を重く見た老中・松平信綱は、これまでの方針を改めて架橋を決定。1659(万治2)年に、新たな橋が建設されます。この橋は、隅田川で一番大きな橋であるとして「大橋」と呼ばれていました。

 当時は隅田川の西側が武蔵国(むさしのくに)、東側が下総国(しもうさのくに)だったことから、大橋は「両国橋」に変わり、のちに地名となります。

 両国橋という地名が定着した背景には、平安時代に成立した『伊勢物語』で隅田川が武蔵国と下総国の間を流れる川として登場していたことも関係しているようです。

幕府の米倉があった現在の中央区東日本橋1丁目(画像:(C)Google)



 なお橋が架かった当時、橋の東西は開発が進んでおらず「矢之倉」と呼ばれる幕府の米倉(現在の中央区東日本橋1丁目付近)がある程度の、あまりにぎわいのない地域でした。

江戸有数の盛り場となった「両国」

 そんな地域に、「領国広小路」と呼ばれる火除地(ひよけち。防火のために設けられた空き地)が設置され、都心部に空き地ができたこともあり、これを遊ばせておくのはもったいないと考える商売人が現れます。

 そして、空き地にはいつでも取り壊せる小屋掛(こやがけ。興行のための仮小屋)が作られ、相撲や芝居が行われるように。周辺には飲食店も並び、たちまち娯楽の街が誕生しました。

 こうして「両国」は江戸でも有数の活気ある地域として発展していきます。江戸時代を通じて、現在の中央区側が本来の「両国」で、墨田区側は「東両国」「向両国」といった名称でした。

1909(明治42)年に測図された地図。火除地の名残がわかる(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 明治時代になると中央区側は「日本橋両国」、墨田区側は「本所東両国」と呼ばれるようになります。これらが正式な地名になったのは震災復興後の昭和になってから。1929(昭和4)年に現在の墨田区両国1~4丁目が東両国1~4丁目に、1934年に現在の東日本橋2丁目の一部が日本橋両国になりました。

1904年、現墨田区側に両国橋駅開業

 さて、明治になってもにぎわいの中心はまだ本来の「両国」にありました。

 明治になると小屋掛は廃止されて、商店が立ち並ぶようになり、神田川を挟んだ北側には柳橋の花街が生まれます。1903(明治36)年には現在の靖国(やすくに)通りに路面電車が走るようになり、にぎわいはいっそう増しました。

 ちなみに柳橋と言うと、神田川の北側にある台東区のエリアばかりがイメージされますが、全盛期は台東区側には料亭があり、中央区側には置き屋があり、両岸を挟んでにぎわっていました。

 ところが、そのにぎわいにも次第に陰りが見えます。

1909(明治42)年に測図された地図。両国橋駅と国技館の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 1904年、総武鉄道(現在の総武線)の両国橋駅(現在の両国駅)が開業。これに加えて1909年に墨田区側の両国に初代国技館が建設されます。

 こう聞くと、本来の「両国」とは外れた地域に駅や国技館ができたことで、にぎわいの中心が移り、両国の名前が奪われたように見えますが、そうではありません。駅や国技館ができてからも、本来の「両国」は変わらず栄えていました。

都心ゆえに衰退した本来の「両国」

 繁華街の衰退を決定づけたのは、本来の「両国」が都心だったためです。

 都心だったこのエリアでは、早くから区画整理が実施されています。1917(大正6)年の地図と1930(昭和5)年の地図を見比べると、区画整理で町の形が完全に変わってることがわかります。

1917(大正6)年に測図された地図(左)と1930(昭和5)年に測図された地図。13年間で大きく開発されている(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 とりわけ関東大震災後の区画整理で整備された清杉通り(東日本橋駅の上を走る道路)によって、横丁が分断されてしまったことで、町の衰退は決定づけられたようです。

 また、関東大震災(1923年)や太平洋戦争中の空襲被害を受けて、焼け野原になるたびに新たな都市計画が敷かれ、雑然としたにぎわう街が復興することはありませんでした。

改名に対して、反対の声は?

 住居表示の実施によって、墨田区側が1967(昭和42)年に東両国1~4丁目を両国1~4丁目に改めたのに対して、中央区側は1971年、日本橋両国が周囲の日本橋村松町や日本橋若松町などとともに東日本橋へ改称。住所表記は東日本橋2丁目となり、中央区から「両国」の名前は消えました。

1909(明治42)年に測図された(左)と現在の地図(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 通例、こうした伝統的な地名を廃止しようとすると、地域から反対の声が上がるものですが、当時を知る地域の人に尋ねてみたところ、こんな証言を得られました。

「住居表示にあたって、当時の中央区の日本橋出張所で地域の住民を集めて説明会が開かれたんです。そうしたところ、地域からは“墨田区にも両国があって、まぎらわしいから東日本橋でいいんじゃないか”と反対の声がまったくありませんでした。当時、同じ中央区の明石町の住居表示実施で“明石町”を“明石”に改名する計画が出ていて“兵庫県の明石とまぎらわしい”と猛反対され、明石町の名前が残ったこととは正反対でした」

 今では靖国通り沿いにある両国広小路記念碑を除いて、その名残は両国郵便局程度になっています。

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