東京の建物を全て「レンガ造り」に――明治初期に浮上した大構想のあっけない結末

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東京の建物を全て「レンガ造り」に――明治初期に浮上した大構想のあっけない結末

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山下ゆ

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明治維新によって江戸から名を変え誕生した首都「東京」は、どのような変化を遂げていったのか? 官の思惑や人々の生活を知ることのできる1冊『都市空間の明治維新 ─江戸から東京への大転換』(松山恵、ちくま新書)について、ブログ「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」管理人の山下ゆ さんが紹介します。

江戸はいかにして「東京」になったのか

 明治維新によって徳川幕府が倒れ、江戸は「東京」と改称されて日本の首都となります。

 では、名称以外にどのような変化があったのでしょうか? そのことを教えてくれるのが、松山恵『都市空間の明治維新 ─江戸から東京への大転換』(ちくま新書)です。

東京の建物を全てレンガ家屋に。遠大な構想はいつなぜ持ち上がったのか?(画像:写真AC)



 江戸では、江戸城の周囲に大名屋敷や幕臣の屋敷が立ち並ぶ武家地が、日本橋(現在の中央区)や銀座(同)には町人地が、上野(台東区)や芝(港区)には寺社地が広がっていました。その中でも大きかったのは武家地で、幕末には江戸の都市域全体の約7割にもおよんだとされています。

 ところが、明治維新によってその状況は一変します。主君を失った旧幕臣の多くが徳川家に付き従う形で静岡に移住し、参勤交代のために維持されていた大名屋敷もその意味を失ったからです。結果として、江戸の町では大きな人口流出が起こります。

 そこで明治政府は、江戸城の周辺を「郭内(かくない)」、その外側を「郭外」に分け、「郭内」の整備を優先させる政策をとりました。

 この時期、人口の減少と武家屋敷に関連する仕事を失った人びとに対応するために、武家地を桑畑や茶畑にして殖産興業をはかるという「桑茶令」も出されています。現在の文京区白山のあたりには幕臣の屋敷を取り壊して桑畑がつくられました。

 ただし、この桑茶令に関しては、推進した第2代東京府知事の大木喬任(おおき たかとう)が「大失敗」だったと振り返っています。

 一方、中心部では近代的な都市づくりも進められました。銀座につくられた煉瓦(レンガ)街については教科書の挿絵などで見たことがある人も多いかと思いますが、この煉瓦街の整備に取り組んだのが、2021年現在放送中の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一です。

東京をレンガ街に 渋沢栄一の構想

 1872(明治5)年2月に東京中心部を襲った大火で銀座や築地の一帯は焼け野原となります。政府はこれを機に大規模な都市改造をねらい、同年4月には事実上の新築停止を命ずる町触(まちぶれ)を出しています。そこには東京の建物をすべて煉瓦家屋に作り変えていくという遠大な構想がありました。

 この構想の提唱者が当時の大蔵大輔(次官)・井上馨であり、当時大蔵省で井上とともに仕事をしていた渋沢栄一でした。

 煉瓦街の整備には巨額の費用がかかりますが、井上や渋沢は広く義援金を集め、このお金で煉瓦街を整備しようとします。これは前年に岩倉使節団がアメリカのシカゴで遭遇したシカゴ大火における復興をモデルにしたものでした。

 ところが、募金活動で集まったのは4万円弱でしたが、計画の実行に必要な見積額は200万円を超えていました。井上や渋沢のプランはあえなく崩壊したのです。

 しかし、ここであっさりとあきらめる井上や渋沢ではありませんでした。「貸家会社」というスキームで煉瓦街を建設しようとします。

 これは、政府から資金援助を受けた貸家会社が煉瓦家屋を建設し、借家人の家賃からそれを返済していくというもので、このスキームによって煉瓦街の建設が目指されることになります。ちなみに、このスキームを考え出したのは渋沢とみられています。
 
 ただし、現在からすると想像しにくいことですが、この煉瓦街の建設に関して用地買収は考えられていませんでした。地主には煉瓦家屋の建設を拒む権利はなく、工事が予定通り終わらなくても地代は支払われない、煉瓦家屋に長期間入居者が現れなくても金銭的な補償は行わないという、ほぼ地主の権利を無視するような形で計画は進められたのです。

都市改造における「富民」と「貧民」

 これだけ強引な形で近代的な都市の建設を目指した井上や渋沢でしたが、当時の人びとの多くは煉瓦家屋に入居できるほどの資金力を持っておらず、空室が目立つことになります。

 さらに井上や渋沢が同時期に進めていた地租改正の作業ともバッティングすることになります。

 地租改正は米による物納が基本だった江戸時代の年貢を改め、土地の価格に見合った地租を金銭で納めさせるものでした。地租を負担するのは地主であり、地主は土地の所有を認めてもらう代わりに税を負担したのです。

 このような、税を徴収する代わりに地主の権利を認めるというやり方は、地主の権利を無視した煉瓦街建設のやり方と衝突します。結局、煉瓦街の建設は途中で放棄され、銀座地域だけが完成して終わりました。

 煉瓦街という「近代的な都市」の建設よりも、地租改正という「近代的な税制」の確立が優先されたのです。 

 この他にも、都市改造の一環として、「郭外」の場末の町人地を中心部近くに移転させようとする政策も行われています。

 例えば、元鮫川橋北町(現在のJR信濃町駅と四ツ谷駅の間にあった町)が神田へ、小石川境町・金杉町(東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅と後楽園駅の間にあった町)が芝へ、といった具合に多くの町が江戸城の「郭内」に隣接する地域に移ってきています。

 しかも、このときの対象となったのは地主や地借(土地だけ借りて店や家屋は自分で建てていた人びと)などの富裕層のみで、借家人などの「貧民」は対象外とされました。つまり、「富民」だけを「郭内」付近に移動させることで新しい首都を再編しようとしたのです。
 
 新しい首都となった東京は「貧民」を排除することで出来上がっていきました。

したたかに生き抜いた江戸の人びと

 ただ、江戸の人びとが一方的に政府の政策に翻弄されたわけではありません。

 新政府に仕えるようになった旧幕臣は、新政府から屋敷地を拝領できるということを知ると、できるだけ良い屋敷地を求めてさまざまな動きを見せます。例えば、下谷和泉橋通り一帯(現在の昭和通りの御徒町あたり)は人気がありました。

 なぜ人気だったかというと、この地域では、明治元年の時点ですでに空き家になった武家屋敷などに商店が開かれていたからです。町人たちは武士の家来の住まいである表長屋を改造して小さな商店を開いていました。つまり、ここの屋敷を拝領できた旧幕臣には表長屋などを貸し出すことで副収入が期待できたのです。

 この和泉橋通りの人気の理由は、江戸時代の「広場」に近かったということにもありました。江戸時代の「広場」というものは正式につくられたものではなく、広い通りや橋のたもとなどに露店や興行小屋が立ち並んだもので、幕府は橋の維持管理費などを負担させる代わりにこれらの盛り場の存在を許していました。

 和泉橋通りは上野山下などの「広場」に隣接する地域であり、人通りが期待できる場所でもあったのです。

 ところが、新政府はこうした公道上の店を許しませんでした。私有地と公有地の区別をつけることが新政府の方針だったからです。

 そこで人びとはどうしたかというと、地租負担に耐えかねて大名が手放した屋敷地を道路を作って分割し、新たな町である新開町をつくっていきました。そして、広場で営業していた露店や興行小屋は、その屋敷地内へと移転していきました。

松山恵『都市空間の明治維新 ─江戸から東京への大転換』ちくま新書(画像:筑摩書房)



 江戸の町の人びとは、新政府によるさまざまな都市改造が行われる中でも、したたかに生きていたのです。

 本書は、江戸から東京への都市の変化と、その変化に対して人びとがどのように生き抜いていこうとしたのかを教えてくれるものになっています。

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