広さは東京ドーム約3.2個分 東京・府中市に佇む都内最大級の廃墟「米軍府中基地跡」とは何か

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広さは東京ドーム約3.2個分 東京・府中市に佇む都内最大級の廃墟「米軍府中基地跡」とは何か

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野村宏平

ライター、ミステリ&特撮研究家

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多摩地域中部に位置する府中市。そんな府中市の北東部に都内最大級の廃墟「米軍府中基地跡」があります。いったいどのような経緯で残されているのでしょうか。ライターの野村宏平さんが解説します。

府中市の北東部にあるディープスポット

 4月12日(月)から実施された「まん延防止等重点措置」、東京都では23区に加えて多摩地区の6市が対象となりましたが、そのひとつが府中市でした。

 府中市は中心部に大型商業施設が軒を並べ、大國魂神社(府中市宮町)、郷土の森公園(同市矢崎町)、東京競馬場(同市日吉町)、あるいは三億円事件の犯行現場など、見どころはいくつかありますが、ここでは北東部にあるちょっとディープで気になるスポットを紹介してみたいと思います。

 その筆頭が米軍府中基地跡。山間部や島しょ部を除けば、都内に残る最大級ともいえる廃墟です。

日常の中の異世界、米軍府中基地跡

 京王線東府中駅から北に向かい、航空自衛隊府中基地と市民の憩いの場になっている府中の森公園(浅間町)に挟まれた平和通りを進んでいくと、前方にひときわ高い鉄塔が見えてきます。米軍基地跡に残る高さ107mの通信鉄塔(マイクロウエーブ塔)です。

 通りの突き当たりにある平和の森公園(同)に入り、左手を見ると、フェンスの向こうに、赤い屋根の建物が見えます。倉庫か工場だったと思われますが、窓ガラスはことごとく割られ、クリーム色の壁にはシミが浮かび上がって、無残な姿をさらしています。周囲には手入れのされていない樹木や雑草が生い茂り、不気味さをいっそうあおっています。フェンスには「国有地」と書かれたプレートが貼られ、中に立ち入ることはできません。

 フェンスに沿って歩いていくと、同じような建物がいくつか建っているのが確認できます。西側を通る小金井街道に出ると、フェンスによって侵入を禁じられたうっそうたる森がはるか先まで延々と続いており、廃墟の広さを実感させられます。

米軍府中基地跡に残る廃墟施設(画像:野村宏平)



 府中市の資料によれば、その面積は約14.9haに及び、東京ドーム約3.2個分に相当するとのこと。いまひとつピンとこないかもしれませんが、周囲の道を一周すると2km余りになります。

 北側は閑静な住宅街に隣接していますが、ところどころから、2基の巨大なパラボラアンテナを望むことができます。米軍府中基地のシンボルともいえる存在で、直径は約14mあるそうです。横には通信鉄塔も見えます。

 まるで、そこだけが日常の中にぽっかりと浮かび上がった異世界のようにも思える、ちょっと不思議な光景です。夜中に見たら恐怖を感じるかもしれません。

 それにしても、住宅地のすぐそばにどうしてこんな廃墟が放置されているのでしょうか?

基地跡の再開発を阻害するものとは?

 府中基地は1940(昭和15)年、陸軍燃料廠(ねんりょうしょう)として開設されたのが、その始まりです。

 終戦後はアメリカに接収されて米空軍府中基地となり、最盛期には約2300人の米軍人と軍属、約1400人の日本人従業員が働いていましたが、1957年に用地の一部が返還され、航空自衛隊府中基地が併設されました。そして1975年、通信施設を除く大部分の返還が実現します。

 返還された土地は「国の利用」「地元自治体の利用」「当分の間、留保」の三つに分けられることになりました。「国の利用」としては航空自衛隊府中基地が引き続き使用することになり、「地元自治体の利用」としては、1990年代に府中の森公園、府中の森芸術劇場、生涯学習センター、府中の森市民聖苑等が開設されました。

 残った3分の1が、「当分の間、留保」となった北側の跡地で、手付かずのまま廃墟化しているわけです。

 もちろん、この留保地の利用についていままでなにも検討されてこなかったわけではありません。一時は国の研究機関を移転する計画があったようですが、結局中止になっています。

米軍府中基地跡のパラボラアンテナと通信鉄塔。鉄塔も並んでいるように見えるが、実際にはアンテナの後方100mほど離れた位置に立っている(画像:野村宏平)



 2016年には北側にあった旧米軍住居5棟が解体されましたが、建物はほかにもいくつか残っています。中でもネックになっているのが、留保地のほぼ中央にある例の通信鉄塔です。

 実は、この鉄塔と足元にある建物が返還から除外された通信施設で、現在も米軍が使用しているのです。そのため、再開発するにしてもここだけは手を付けることができません。

 2020年、跡地を商業施設、公園、学校、住宅地とする新たな利用計画が府中市によって策定され、国に提出されたようですが、果たしてどうなるのか。今後の動向が気になるところです。

「特撮の神様」が眠るカトリック府中墓地

 府中基地のパラボラアンテナは不気味な威圧感を持っていますが、その姿にどこか郷愁を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

『地球防衛軍』や『モスラ』や『怪獣大戦争』など、昭和の特撮SF映画や怪獣映画にたびたび出てきた巨大アンテナやパラボラ型の超兵器を連想させるせいかもしれません。平成のゴジラシリーズでも、パラボラ型のメーサー光線車が対怪獣兵器として、毎回のように登場していました。

 実は府中市は、特撮とも非常に縁(ゆかり)の深い場所です。米軍基地跡の北側には学園通りという道路が東西に伸びていますが、西に500mほど行くと、カトリック府中墓地(天神町)があります。ここには、「特撮の神様」と呼ばれる円谷英二の墓所があるのです。

カトリック府中墓地にある円谷英二の墓所(画像:野村宏平)



 円谷英二は『ゴジラ』や『ウルトラマン』を始め、数多くの映像作品の特殊撮影を監督・監修し、日本の特撮の基礎を築いた偉大なクリエイターで、円谷プロダクションの創業者。特撮ファンでその名を知らない人はいないでしょう。2021年は生誕120年、没後51年にあたります。

 墓園のなかほどに位置する円谷家の墓所には、円すい形の白い石の上に、矢尻のようなモニュメントが天に向かって伸びています。その下には、ファンが供えたのでしょうか、あたかも自分たちの創造主を守るかのように、ゴジラやウルトラマン、ウルトラセブンたちのフィギュアが並べられています。

 同じ墓所には、英二の長男で、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』で監督、『帰ってきたウルトラマン』でプロデューサーを務めた円谷プロ2代目社長・円谷一も眠っています。

多くの有名人が眠る多磨霊園

 墓地といえば、府中市北東部には日本初の公園墓地で、都立としては最大の規模を誇る多磨霊園(多磨町)があります。非常に広大な霊園で面積は128ha。巨大廃墟として紹介した米軍基地跡留保地の約8.6倍にあたります。

 開園は1923(大正12)年ですが、都心から離れていたため、最初のうちは利用者はあまり多くなかったそうです。しかし、日露戦争時の連合艦隊司令長官として国民から英雄視されていた東郷平八郎が1934(昭和9)年に埋葬されたことで、一気に知名度が高まったといいます。

多磨霊園の名誉霊域にある東郷平八郎の墓所(画像:野村宏平)



 東郷の墓は、正門からまっすぐ伸びるメインストリート沿いの名誉霊域と呼ばれる区域にあり、隣には、太平洋戦争の連合艦隊司令長官・山本五十六と古賀峯一の墓が並んでいます。

 また、すぐ近くには西郷隆盛の弟で明治時代の政治家・西郷従道、明治から大正にかけて内閣総理大臣を務めた西園寺(さいおんじ)公望の墓所もあります。

芸術家・岡本太郎の墓所も

 そのほか、多磨霊園には数多くの著名人が眠っています。

 文化人では、歌人の与謝野鉄幹と晶子夫妻、詩人の北原白秋、文芸春秋の創設者で芥川賞と直木賞を設立した菊池寛、劇作家として著名な岸田國士、『宮本武蔵』や『新・平家物語』などの歴史小説で知られる吉川英治、捕物帳の定番『銭形平次捕物控』の生みの親・野村胡堂、日本ミステリ界の巨人で、名探偵・明智小五郎や小林少年、怪人二十面相を創造した江戸川乱歩、戦後を代表する文豪・三島由紀夫、『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』など人気ドラマの脚本を手がけた向田邦子、『サザエさん』や『いじわるばあさん』でおなじみの漫画家・長谷川町子……と枚挙に暇がありません。

 中でもユニークなのが、大阪万博の「太陽の塔」や流行語にもなった「芸術は爆発だ!」で知られる芸術家・岡本太郎の墓所でしょう。

多磨霊園にある岡本一平、かの子、太郎の墓所(画像:野村宏平)

 両親である一平(画家・漫画家)とかの子(作家・歌人)の墓も同じ一画にありますが、太郎の作品「午後の日」と「顔」が墓碑として使われていたり、岡田家を「聖家族」と評した川端康成の言葉が刻まれた石碑が置かれていたり、そこだけがまるで美術館の展示室のような趣です。

 芸能人の墓も多く、加山雄三の父親で元祖二枚目俳優といわれた上原謙、人気時代劇『水戸黄門』で初代光圀役を演じた東野英治郎と長男の英心、2代目光圀役を務めた西村晃、心霊研究家としても知られた大御所俳優の丹波哲郎、岸田國士の娘で女優の岸田今日子、人気アイドルグループ、キャンディーズの「スーちゃん」として親しまれ、のちに女優としても活躍した田中好子らがこの霊園に眠っています。

府中で登山気分を味わう

 多磨霊園を散策していると、西の方に、樹木に覆われたこんもりとした丘が見えてきます。

 浅間山(せんげんやま)と呼ばれる丘の裾野で、約2万年前、古多摩川などの河川が台地を削り残したことによってできた残丘(ざんきゅう)です。多磨霊園の南西の隅(26区)にある江戸川乱歩の墓所のすぐ近くから、この山へ登ることができます。

 雑木林の中、ゆるやかな坂道を登っていくと「きすげはし」というつり橋が架かっています。橋の名は、ここだけに自生するユリ科の多年草で東京都の絶滅危惧種に指定されているムサシノキスゲにちなんだものでしょう。4月下旬から5月上旬に黄色い花を咲かせるといいます。

 橋を渡ると、さらに上へと続く急な山道が伸びており、その頂上に小さな祠(ほこら)が建っています。山名の由来になった浅間神社です。

 このあたりは昔、人見村といわれた場所で、山の名前も人見山でしたが、この神社が建てられたことにより、浅間山と呼ばれるようになったといいます。ちなみに杉並区の久我山や三鷹市の南部を通っている人見街道は、この人見村へと至る道です。

浅間山(台山)山頂からの眺望。正面に見える2棟の高層ビルは武蔵小金井駅前のタワーマンション(画像:野村宏平)



 浅間山には三つの頂があり、浅間神社があるのは堂山というもっとも高い山で、標高は79.6m。その西側に中山、前山というふたつの頂が連なっており、尾根道の縦走はちょっとしたハイキング気分を味わえます。

 現在は都立公園として整備されている浅間山ですが、第2次世界大戦中には麓が陸軍燃料廠の火薬庫として利用されていたそうですから、府中基地とも無縁ではありません。実際、府中基地はこの山とは目と鼻の先。木々の向こうに目を向ければ、パラボラアンテナの側面を垣間見ることもできるでしょう。

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