世田谷に6本もの道路が集まる「六叉路」があった! 成立の背景にある歴史とは

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世田谷に6本もの道路が集まる「六叉路」があった! 成立の背景にある歴史とは

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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5本以上の道路が集まる交差点を意味する「多叉路(たさろ)」をご存じでしょうか。その魅力について、フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

「多叉路」とは何か

 東京には多叉路が多い、と思ったことありませんか? 道なりに行けば目的地へ行けるなと思ったところに、いきなり六叉路とかあったら「えっと、どれが道なりなんだ?」となったり。そういうの、けっこう好きです。

白い線が世田谷通り。茶色い線が古い道筋。青い線が水道道路。と重なっているそれぞれの道を色づけしてみた。背景は標高によって色分けしてある。「スーパー地形」より(画像:荻窪圭)



 ちなみに「多叉路」は「たさろ」と読みます。以前「なんて読むの?」と聞かれたことがありまして、一般的な単語だと思ってたので驚きました。

 たしかに「たさろ」で一発変換できないんですよね。「たしゃろですか?」と聞かれたこともあります。確かに「夜叉」と書いたら「やしゃ」と読みますものね。「たさろ」より「たしゃろ」の方がなんとなくかわいいのでいいかも。

 もともと「交差点」も「交叉点」と書いていました。「叉」は「また」ですから、「交叉点」の方が意味はあってるのです。

 そして一般的に叉の数が5つを超えると(つまり五叉路以上)、「多叉路」と呼びます。

 東京って道路が複雑に絡み合っているので、小さなものから大きなものまで多叉路があるわけですが、そういう交差点に出くわすと、ついiPhoneのアプリで古地図をみちゃうんです。

 いつからそうなったの? なぜ多叉路化したの? ってのが気になってしまうのですね。そうするとどの多叉路にもやむを得ぬ歴史があって面白いのです。

世田谷区にできた六叉路の歴史

 そんななかで一番好きな多叉路が世田谷区にあります。砧小学校交差点……といわれても地元の人しかわからないですよね。

 世田谷通りの交差点で、最寄りの著名な場所といえば、東宝スタジオ(世田谷区成城)でしょうか。ゴジラ像や『七人の侍』の壁画で有名です。

 ここの多叉路は地形的にも歴史的にも興味深いのです。

明治前期の様子。大きくS字を描いているのが登戸道(世田谷通り旧道)。赤い丸がのちに多叉路になるところ。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より(画像:荻窪圭)



 明治時代前期の古い地図を見ると街道が大きくS字を描いています。これが今でも残る世田谷通りの旧道。江戸時代は「登戸道」や「津久井往還(おうかん)」と呼ばれてました。中世に遡る非常に古い道です。

 ここが大きくS字カーブを描いているのは、地形のため。この坂を下りて仙川を渡り、またちょっと上って次の坂を下りるというややこしい地形で、なるべく急な坂路にならないようなルートをとっているのですね。昔の知恵です。標高的には約40mから約22mまで、18mの高低差があるのです。

 そのS字の途中に多叉路ができました。明治時代の地図を見ると、世田谷通りの旧道と細い道がX字に交わってます。

十字路から五叉路になった理由

 そんな古い街道ですが、大正時代末から昭和の頭に大きなできごとがおきます。新しい道路がそこに重なるのです。

 明治以降、人口が爆発的に増え、新しく上水道が必要になりました。そこで多摩川の水を取水して濾過して配給する「荒玉水道」が作られたのです。

 荒川の「荒」と多摩川の「玉」で荒玉。実際には荒川まではつながってないのですが、世田谷区、杉並区、中野区などへ水が供給され、今でも水道管として使われてます。水道管なので地形も道路も無視して真っ直ぐに地中に敷かれました。そしてその上に道路が作られました。いわゆる「水道道路」ですね。

 その水道道路がなんと、S字カーブのど真ん中、ちょうど古い十字路の近くを貫いたのです。

 これで十字路が五叉路になりました(六叉路にならなかったのは、一部、街道の地下を使ったから)。

昭和初期の様子。S字カーブの真ん中を水道道路が貫いた。赤い丸が多叉路。「東京時層地図 for iPad」(日本地図センター)より(画像:荻窪圭)

 昭和初期の地図を見てもらうとわかります。なんか無慈悲に貫いてますよね。東宝スタジオの前身となる「写真科学研究所」も建てられてます。

 この荒玉水道道路は世田谷区や杉並区にいくつもの多叉路を作ってくれました。

多叉路は「歴史が積み重なった結果」

 さて戦争が終わり、急激な人口増加で住宅が不足し、高度成長期に向かってモータリゼーション(懐かしい言葉ですね)がやってくると、広くて真っ直ぐな自動車に向いた道路が必要になりました。

 かくして坂の上から下へまっすぐに下る世田谷通りの新道が作られ、その両側には斜面の上と下にまたがる大規模な大蔵団地(都公社大蔵住宅)が1959(昭和34)年、作られたのでした。今の世田谷通りですね。

 この道路は傾斜を緩くするために斜面を切り通しており、沿道には桜も植えられてます。その新しい世田谷通りがなんと、S字真ん中を貫いたのです。

台地を削ったり盛り土をして緩い傾斜で作られた今の世田谷通り。両側には桜が植えられている。この奥に六叉路がある。(画像:荻窪圭)



 かくして広大な六叉路が完成したのでした(七叉路といってもいいのですが、S字の下の方は交差点からちょっとずれてますので交差点としては六叉路です)。

 ぱっと見るとややこしいだけの多叉路もこうして地形や変遷を見ると、歴史が積み重なった結果なんだなと感慨深くなりません?

 それを知らないと単なる大きくてややこしい交差点(しかも横断歩道があるところないところ、歩道橋を使わねばならないところなどもあって慣れてないと大変)ですが、知ってしまうと味わいたくなりません?

 ここ、どの駅からも遠いですが(強いていえば成城学園前駅。あるいは祖師谷大蔵駅からウルトラマン商店街を歩くのもあり)、東宝スタジオのゴジラ像や七人の侍壁画、回転する妙法寺(世田谷区大蔵)の「おおくら大仏」、大蔵団地の自然が残る斜面など……まあ地味ではありますが、カーブした旧道が残ってますし、好きなエリアです。

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