東京・荒川区に残存――美しき「レンガ塀」が描く近代東京の面影

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東京・荒川区に残存――美しき「レンガ塀」が描く近代東京の面影

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小川裕夫

フリーランスライター

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富国強兵と殖産興業を旗印に、近代化へ突き進んだ明治の日本。そんな時代に必要とされたのがレンガ建築でした。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

近代的な工場が必要とした「レンガ」

 2021年2月20日(土)、尾久図書館(荒川区東尾久)が移転してリニューアルオープンを果たしました。新装した尾久図書館は隣接する公園と一体的に整備され、緑あふれる区民が集える空間になっています。今後、敷地内には保育所なども整備される予定になっています。新しくなったことで区民から注目を浴びている尾久図書館ですが、その外構にもこだわりが見られます。それが、レンガを多用している点です。

 明治初期、政府は富国強兵と殖産興業(資本主義的生産方法を保護育成しようとした政策)を二大スローガンに掲げました。殖産興業では、富岡製糸場をはじめとする大規模工場が建設され、近代的な工場の導入が図られています。

 そんな近代的な工場は、国にとって重要な施設でした。政府は簡単に工場が損壊しないよう、耐震・耐火の観点から工場を頑丈につくることを決めました。そのため、それまでの木造ではなく、レンガという新たな建築材料で工場をつくろうとします。

 しかし、レンガで工場をつくるといっても簡単ではありません。それまでの職人たちはレンガで建物をつくった経験がありません。そこで西洋からお雇い外国人を招聘(しょうへい)しました。

 お雇い外国人の力を借りることで、建築・設計という面はクリアできました。しかし、問題はまだありました。それが、レンガで建物をつくろうとしても、そもそも日本国内でレンガ製造していないことです。いくら建築・設計が可能になっても、材料がそろわなければ意味がありません。

 帝都・東京では、江戸から明治へと時代が移るにつれて、官公庁舎や在外公館、学校・銀行・病院といった多くの公共施設を整備する必要が生じました。それらの諸施設は近代的な建築技術が用いられることになったため、その材料としてレンガの需要が急増します。

 そうしたレンガ需要の高まりに応えるべく、政府は荒川流域に注目します。現在の荒川区・足立区付近にあたる荒川流域はたびたび水害が起き、耕作地には不向きな土地とされていました。

人気の建築材料となるも関東大震災で失速

 そうした背景から、江戸時代の荒川流域は瓦・しっくい・壁土の原料となる土を採取場となっていました。また、レンガ需要の高い都心部に近い点なども考慮されて、荒川流域ではレンガ工場が次々と生まれていきます。

 帝都・東京のレンガ需要をけん引したのは、1872(明治5)年に井上馨が主導した「銀座煉瓦(れんが)街」の建設でした。銀座煉瓦街が起源となり、それまでレンガを目にしたこともなかった多くの人たちが街のあちこちに建てられたレンガ建築を目にするようになります。

 華やかな見た目から積極的に用いられたレンガ建築ですが、木造と比較すると耐震性・耐火性に優れていました。そうしたメリットもあって、政府が操業する官営工場でも用いられていきます。レンガは工場の建物本体だけではなく、倉庫や塀などにも使う傾向が見られました。

 当時の代表的レンガ建築物には、1879年に操業した千住製絨所(せいじゅうしょ)があります。現在、製絨所という言葉は聞き慣れませんが、これは軍服や制服の生地を製造する工場です。明治初期、政府は制服の生地を外国から調達していました。しかし、それでは購入費が高くついてしまいます。そこで自前生産へと切り替えるべく、千住製絨所を設立したのです。

荒川区南千住にある荒川工業高校の周囲に残る千住製絨所のレンガ塀(画像:小川裕夫)



 こうした経緯を見れば、政府にとって千住製絨所はとても重要な工場といえます。そのため、工場の建物そのものや工場の敷地を囲う塀にもレンガが使われたのです。

 明治期に建築材料として人気になったレンガですが、1923(大正12)年に関東大震災が発生したことで大きく運命を変えます。地震によって多くのレンガ造りが倒壊。それらを踏まえ、より耐震性の高いコンクリートが建築材料として注目されるようになるのです。こうして、レンガ建築の時代は終焉(しゅうえん)に向かいます。

 レンガ建築の代表ともいえる千住製絨所は、関東大震災後も操業を続けました。1940年に陸軍製絨廠(しょう)となり、戦後は大和毛織の工場となっていますが、レンガ造りの建物はそのまま使われました。

荒川区に残るレンガ建築

 しかし、時代の流れもあって1961(昭和36)年に工場が閉鎖。敷地は名古屋鉄道と大映が取得し、大映が取得した敷地内には東京スタジアムがオープンしています。

 東京スタジアムは毎日大映オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のホームスタジアムとして使用されることになり、下町の球場として都民から親しまれました。

 東京球場も閉鎖になり、現在は荒川工業高校や荒川総合スポーツセンター(ともに荒川区南千住)へと姿を変えています。

千住製絨所は東京球場、そして現在はスポーツセンターへと姿を変えている(画像:小川裕夫)



 激動の運命をたどった荒川のレンガの歴史は、忘れられつつあります。明治期に殖産興業をけん引した荒川流域には、昭和期までレンガ塀などが多く残っていました。しかし、時間の経過とともにレンガ建築は姿を消しています。

 千住製絨所の跡地には、後世にも歴史を伝えようとレンガ塀が保存されています。
新たな図書館の外構・外壁の一部にレンガ塀を使用したのも、荒川区がレンガの歴史を少しでも残し、伝えようとする姿勢の表れといえるのかもしれません。

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