「自分たちの島は自分たちで守る」 伊豆大島が戦後、日本から独立しようとしたのをご存じか

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「自分たちの島は自分たちで守る」 伊豆大島が戦後、日本から独立しようとしたのをご存じか

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大島とおる

離島ライター

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東京から120kmの場所にある伊豆諸島最大の島・伊豆大島ではかつて、日本からの独立が考えられ、日本国憲法とは別の憲法まで準備されるという騒動があったことをご存じでしょうか。フリーライターの大島とおるさんが解説します。

東京から120km離れた伊豆大島

 東京から120kmの場所にある伊豆諸島最大の島・伊豆大島は行政上、東京都大島町に属している離島です。竹芝桟橋(港区海岸)からジェット船で約1時間45分、調布飛行場(調布市西町)から約25分で到着することからも、かなり都心に近い離島と言えます。

 そんな伊豆大島では、かつて日本からの独立が考えられ、日本国憲法とは別の憲法まで準備されるという騒動があったことをご存じでしょうか。

 国家の独立は世界でもめったにありません。独立は大抵、民族や宗教、言語などの属性が異なる国が既にある国から分離することです。しかし民族も言語も同じはずの伊豆大島が独立しようとした背景には、いったいどのようなことがあったのでしょうか。

GHQが通達した覚書

 ことの始まりは、太平洋戦争後――。連合国軍総司令部(GHQ)は1946(昭和21)年1月29日、「若干の外かく地域を政治上行政上及(およ)び行政上日本から分離することに関する覚書」を日本政府に通達します。

 この覚書は、日本政府の施政権(立法・司法・行政の三権を行使する権限)の及ぶ範囲を定め、それ以外の地域を日本の統治下ではないとするものでした。

伊豆大島(画像:海上保安庁)



 ここには「日本の範囲から除かれる地域」として、北緯30度以南の琉球(南西)列島や千島列島のほか、「伊豆、南方、小笠原、硫黄群島」と記されていました。

 その後の歴史で知られるとおり、小笠原諸島は1968年、沖縄は1972年の返還までアメリカの統治下に置かれます。同様に、伊豆諸島も日本の統治から外れる可能性があったのです。

地元紙も毎日のように報道

 このような流れにありながらアメリカの統治下に入るのではなく、独立が議論された背景には、当時の伊豆大島の厳しい状況があったようです。

 1981年発表の『伊豆諸島東京移管百年史』(東京都島嶼町村会)には、

「東京湾の目の前にあるといっても、海を隔てて、一切の通信・交通が断絶した状態に置かれた伊豆諸島の混乱は目にあまるものがある」

と記されています。

 伊豆諸島は当時も東京都でしたが、混乱で半ば音信不通の状態でした。しかも都民が伊豆諸島に上陸しようとすると、目的と期間を記した区町村発行の証明書とGHQの許可が必要でした。

伊豆大島の位置(画像:(C)Google)



 このような状況下に前述の覚書がもたらされ、伊豆諸島は米軍の信託委任統治下になるといううわさが広まったことで、伊豆諸島の島々は混乱に陥ります。

 八丈島では地元紙『南海タイムス』(2020年休刊)があったため、その動向が毎日のようにトップ記事で報じられました。

 名古屋学院大学准教授の榎澤幸広氏の論文「伊豆大島独立構想と1946年暫定憲法」(『名古屋学院大学論集 社会科学篇』49巻4号)によれば、覚書に対する動きは島ごとに異なり、

1.うわさ程度に止まった島(式根島)
2.混乱の中、日本への復帰を求める島(利島)
3.混乱の中、島の独立論が登場した島(八丈島、三宅島)

と3点に整理することができるとしています。このなかで伊豆大島では、独立を前提に憲法を準備するところまで話が進んだのです。

GHQの誤解と早急な「大島憲章」作成

 ここまで話が大きくなった背景には、GHQが伊豆諸島も米軍の統治が行われていると誤解していたためとされています。

 当時、小笠原諸島全域は日本の降伏とともに、アメリカ軍の占領担当地域になり、軍政が敷かれていましたが、覚書を作成する過程で伊豆諸島も同様だと思ったまま、文書がつくられていたようです。

伊豆大島の鳥瞰図(画像:海上保安庁)

 しかし誤解されたまま、物事は進んでいきます。

 1946年2月21日に伊豆大島に駐屯するGHQから、GHQは当面の間、行政機関を置かず監督のみ行うことが通達されます。島内にある六つの村の村長や関係機関は会合を重ね、伊豆大島における立法・行政府の設置など、事実上、独立に向けての準備が進められていきました。

 作業はすさまじい速さで進められ、瞬く間に前文にあたる「大島大誓言」と、全3章23条からなる事実上の憲法「大島憲章」がつくられました。この大島憲章には、後の日本国憲法に先んじて「主権在民」や「平和主義」が盛り込まれていました。

過去の日本人にあった自治の精神

 ところが3月22日になり、GHQは覚書を修正。伊豆諸島は日本の施政権が及ぶ範囲に含まれるとしました。経緯は定かではありませんが、事態に気付いた東京都がGHQに伊豆諸島が米軍の軍政下ではないことを伝えたためだと考えられます。

 こうして、伊豆大島で進められていた独立準備は瞬く間に無用のものとなりました。この騒動は島の人たちからも次第に忘れられ、東京区裁判所大島所長だった立木猛治さんによる1969年の著書『伊豆大島志考』(伊豆大島志考刊行会)にわずかに触れられている程度となりました。

『伊豆大島志考』(画像:伊豆大島志考刊行会)



 ところが、1997(平成9)年に町役場の収蔵庫からガリ版刷の「大島大誓言」の原本が見つかったことで、再び脚光を浴びることになりました。

 この独立騒動は戦後混乱期の「珍事」ではありませんでした。同様に、日本各地の離島でも独立を目指す動きがあったようです。

 例えば沖縄戦後に無政府状態になった沖縄県の八重山諸島では、1945年12月に住民によって「八重山自治会」が結成されています。

 これは翌1946年1月に米軍政下で八重山支庁ができるまでの短命な組織でしたが、現在では「八重山共和国」という名称でも知られています。また熊本県の天草諸島でも、戦後独立論が盛んになったことが記録されています。

 自分たちの島は自分たちで何とかする――そんな気概や自治の精神が過去の日本人にはあふれていたのかもしれません。

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