東京・福生市でかつて「埋蔵金」が発見されていた! 90年代ブーム「徳川埋蔵金」とともに振り返る

かつてテレビ番組をにぎわせた埋蔵金ですが、多摩地域西部の福生市でかつて見つかったことがあるのをご存じでしょうか。フリーライターの小西マリアさんが解説します。


価値の高かった宋銭

 そして、11世紀頃から大陸と貿易を行う九州の商人たちによって再び銭の使用が盛んになり、次第に広まっていきます。

埋蔵銭が見つかった福生市の熊川地区(画像:(C)Google)

 銭の使用に着目した最初の権力者は平清盛(1118~1181年)ですが、その使用が広まると絹や米の価値は下落。このことは平氏政権と朝廷が対立する一因となり、その後、鎌倉幕府は使用を認め、銭の流通は広がるようになりました。

 銭は鎌倉時代から戦国時代まで、大陸から輸入するか国内製造するかのどちらかでした。現代のように国や日本銀行が発行するわけではないため、民衆の間でも銭の製造が行われていたのです

 その価値は銭の質に応じて決まり、輸入されたものは一般的に高い価値とされていました。これは日本に限ったことではなく、宋(そう)代に鋳造された宋銭は、アジアはもとよりアフリカでも通用したといいますから、価値は極めて高かったのです。

いつ、誰が埋めたのか

 さて、前述の福生市で発見された中世大量埋蔵銭ですが、いつ、誰が埋めたのでしょうか。

 福生市の刊行物『福生歴史物語』(1999年)では、16世紀後半と推定しています。まさに戦国時代の真っ只中。当時の福生市周辺の勢力を見ると、後北条(ごほうじょう)氏が武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県川崎市・横浜市にまたがる旧国名)をほぼ掌握。一方、大石氏や三田氏はいまだ上杉氏に仕えて抗戦をしていました。

 1537(天文6)年に後北条氏は、扇谷上杉家の当主・上杉朝定の河越城を落としています。この河越城をめぐる争奪戦は、戦国時代のエピソードではあまり広く知られてはいませんが、後北条氏の関東支配を決定づける戦いです。

 1545年には、城をめぐって後北条氏vs関東全大名(下総の千葉氏を除く)が激突。これに後北条氏が勝利したことで権力は確かなものになります。大石氏は上杉氏とともに越後へ逃れ、三田氏は滅亡するも、一族は後北条氏に仕えたとされています。そんな戦乱の時代に、福生の中世大量埋蔵銭は埋められたのです。

 しかし肝心の、誰が埋めたのかは明らかにはなっていません。『福生歴史物語』では福生市に隣接する昭島市・拝島町エリアの『拝島村大日堂縁起』という文献に触れています。

福生市拝島町1丁目にある大日堂(画像:(C)Google)

 内容は、北条氏に仕えた石川土佐守という武士が大日堂(拝島町1)を建立した際、将来の修復費用として永楽銭1000貫(3750kg)を埋めたというものです。現在の貨幣価値に換算することは難しいですが、億はくだらない金額です。

まじないの意味もあった埋蔵銭


【画像】福生市で出土した埋蔵金

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