飲んべえの聖地・葛飾区「立石」――地名の由来はビックリするほど小さい「石」だった

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飲んべえの聖地・葛飾区「立石」――地名の由来はビックリするほど小さい「石」だった

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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東京都の北東部に位置し、「せんべろの街」「飲んべえの聖地」として広く知られる葛飾区立石。そんな立石の語源は同名の石でした。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

葛飾区に残る平安時代の道標

 東京の東の方、隅田川と江戸川に挟まれた「東京低地」はその名の通り、まっ平で、縄文時代には海だったところ。最近よく「海面が何m上がったらどこが水没するか」ってな画像が話題になりますが、そういうことすると瞬時に水没しちゃうエリアです。

 でも平安時代のこと、その低地を「古代東海道」が通ってました。浅草からずいぶん北へ行ったあたりに在原業平が「名にし負はばいざ言問はむ都鳥我が思ふ人は有りやなしやと」と詠んだことで有名な「隅田の渡し」があり、そこから東へ、下総国国府(今の市川市)に向かっていたのです。

 そしてなんと、その平安時代の道筋がけっこう残っていて、今でもある程度たどれるというのですね。平らなので真っすぐな道を敷きやすいのはわかりますが、水害に遭いやすい土地に道筋が残っているのは驚きでした。

 今の東武スカイツリーラインの鐘ヶ淵駅から東へ真っすぐ(途中、荒川で分断されてますが)進み、途中から「奥戸街道」という名前になります。

古代の道標「立石」がそこに

 今回注目したいのは、その古代東海道の道標(どうひょう、みちしるべ)だったといわれている「立石(たていし)」。江戸時代は「立石村」、今は「葛飾区立石」。京成押上線の「京成立石駅」と駅名にもなってますが、その語源は「立石」という石。

 立石は、古街道の岐路や渡河点といった交通の要衝に道標としておかれる石柱のこと、そこはまさに中川を渡ろうとする場所なのでぴったりです。

 のちの時代、その道が官道だった記憶が薄れ、道の近くにポツンと大きな石が立っている姿がそのあたりの象徴となり、地名になっていったのだなと思うとちょっと感慨深いものがありますよね。

 そして、その平安時代の道標だった(と思われる)立石が、今でも「立石様」として現存しているというではないですか。

税務署の裏に鎮座

 これは行かねばなるまい、と思ったのが12年前のこと。「立石様」に会いたくなって自転車で走ったのです。

 まだiPhoneも出たばかりで地図アプリも充実してませんから、頼りになるのはポケットサイズの小さな地図帳。「立石様」の場所は載ってませんが、地名にもなってるくらいだから、近くへ行けば案内くらいあるだろう、ない時は地元の人に聞けばいいやという軽い感覚で古代東海道だったという道を東へ走ったのです。

 そして「京成立石駅前」の交差点でふと不安になりました。ここから近いと思うのだけど、どこにも「立石様はこちら」って案内がない。駅前の交差点からは駅に向かってアーケードが伸びており人通りも多いので、地元っぽい人に声をかけてみると……「え、立石ってあるんですか?」という反応。不安が倍増です。

 年配の方なら知っているはずと尋ねてみると「葛飾税務署の裏にありますよ」。ありがとう、で、税務署ってどこ?

 ポケットから地図を出すと、さすがに税務署は載ってました。だいたいのルートを頭に入れ、中川沿いに走りながら税務署へ向かうことにして橋へと向かう。

「立石様」の大きさはたった数cm

 すると橋のたもとにいきなり江戸時代の石造物。ひとつは子育地蔵尊、ひとつは馬頭観音、ひとつは出羽三山信者による道標。道標には、右・江戸みち、左おくどみち・まかりかね道とあり、その下に「渡し場道」とあります。

 中川の高い堤防沿いに進むと、川沿いにまた地蔵尊。そこを左に入ると葛飾税務署まですぐです。葛飾税務署の回りをぐるっと回るも見つからず。道ゆく人に「立石」の場所を尋ねてなんとかたどり着きました。

 税務署の東側にある小さな公園へ行くと、その真ん中に四角く囲われた一角があり、その中に「立石様」が鎮座していたのです。出会えてよかった……でも「立ってないじゃん!」

 なんと立石様は地上にほんの数cmほど頭を出しているだけ。どうも、江戸時代に立石稲荷神社の御神体となり、ご利益を求めたりお守りにしたりする人がちょっとずつ削り取ってしまったということのようです。

立石稲荷神社の鳥居。立石様はその奥にある玉石垣で守られている。玉石垣は江戸時代に造られたのが最初とか。2009年の初訪問時に撮影。(画像:荻窪圭)



 昔は立っていたのか、というと江戸時代後期の時点ですでに「一尺」(約30cm)ほど顔を出した状態だったようです。でも公園の入り口から参道があり鳥居も立っていて、昔から「立石様」と呼ばれ大切にされていたことがわかります。平安時代はもっと大きくて目立っていたのでしょう。

 この石、鋸山(千葉県鋸南町)あたりで切り出された「房州石」で、古墳の石室に使われていたものと考えられてます。実際、「立石様」の近くにある南蔵院(葛飾区立石8)というお寺の裏手や、立石熊野神社(同)の近くで古墳が見つかってます(現存はせず)。

 このあたり、中川沿いの水害に弱い低地ですが、川が運んできた土砂が長い年月でたまった微高地(自然堤防)で周囲より少しだけ高く、古墳時代から人がそこに集まって住んでいたのです。歴史を感じますよね。

立石熊野神社は安倍晴明が勧請?

 さらに立石様から200mくらい東へ行くと、前述の立石熊野神社という古い神社があります。

 先ほど、平安時代の古代東海道と書きましたが、この熊野神社も平安時代創建。長保(ちょうほう)年間(999~1003年)に、なんとあの有名な陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明が勧請(かんじょう)したというのです。

 安倍晴明は921年生まれなので、長保年間にはかなりの高齢、遠路はるばる東国まで来たとは思えなかったりしますが、その辺は伝承なので深く突っ込まないことにしましょう。

 ただ、平安時代中期から鎌倉時代にかけて熊野詣が盛んで、東国武士の間でも熊野信仰が流行したことを考えると(都内には鎌倉~室町時代創建という熊野系の神社がいくつもあります)、かなり昔から鎮座していたのは確かでしょう。

 江戸時代の地誌「四神(ししん)地名録」の立石村の項には「神体は神代の石剣なり」と書かれており、こちらも古墳で使われていた石だったのかもしれません。古墳時代から何百年も後の人から見れば、そこにあるはずがない不思議な石だったのです。

 この熊野神社のユニークさは境内の形にあります。正式には「五方山 熊野神社」といい、神紋は五角形の中に八咫烏(やたがらす。足が3本の烏で古事記や日本書紀に登場。日本サッカー協会のシンボルとしても有名)というデザイン。そして境内も五角形なのです。地図を見ると確かにそうだ、と思うはず。

熊野神社の敷地をよく見ると、五角形だというのがよくわかる。地理院地図(国土地理院)より(画像:荻窪圭)



 古街道・立石様・熊野神社と中川の作った微高地の歴史を堪能したら、京成立石駅へ。

 ここ、「せんべろの街」「飲み歩きの聖地」「下町の酒都」「飲んべえの聖地」などなど、要するに安く飲める店がいっぱいある街として有名なのです。新型コロナがおさまるまで飲み歩き、ってわけには行きませんが、駅前再開発で様相が変わりつつありますから、今のうちに昭和そのものの商店街を散策するのも乙でしょう。

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