3月に閉店する新宿「タカノフルーツバー」、実はかつて男性客だけでは入店できなかった!
2021年2月3日
ライフ2021年3月31日(水)の閉店が発表された新宿の名所「タカノフルーツバー」。同店が最後までこだわった経営方針とは――フリーライターの本間めい子さんが解説します。
前身は100年前にスタート
「果実問屋 高野商店」の看板を掲げた店が、新宿にオープンしたのは1900(明治33)年のこと。それ以前は繭仲買・中古道具の副業として果物を扱っていました。
現在の土地に店舗がやってきたのは、1921(大正10)年。このときにフルーツパーラーの前身である「縁台サービス」が始まっています。これが利用客にうけて、1926年には洋風建築の建物をつくり、フルーツパーラーができました。

1923年に発生した関東大震災を契機に、東京の西部には住宅が増え、昭和初期は新宿が新たな繁華街として大発展した時代でした。
店はデートで欠かせないスポットとして発展。この頃は1階が小売りで、2階がフルーツパーラー。シャンデリアをしつらえた豪華な内装にもかかわらず、安くて盛りがよいと評判になりました。当時のデートのスタイルでは、映画や芝居を楽しんだ後に、まだ別れがたいカップルが憩う店として知られていたようです。
この頃の人気商品は、リンゴにミカン、桃、柿、スイカなどの果物が山盛りになった「フルーツコンサート」です。夏にはこれにシャーベットも添えられます。昭和初期の価格で20銭。1935(昭和10)年頃の米が1升30銭、コーヒーが1杯15銭でしたから、確かに安くて盛りがよかったのでしょう。それに加えて、カリー(40銭、チキン・エビが入ると50銭)などのメニューもそろっていたため、カップルが長く過ごすにはうってつけの場所でした。
「バイキング」を打ち出さなかったワケ
さて、このフルーツコンサートはいわば時代の象徴ともいえる産物でした。今では「フルーツポンチ」という名称はレトロな響きがありますが、その始まりは1921年頃、銀座の千疋屋(せんびきや)だとされています。
フルーツポンチは日本で取れる果物を西洋風に飾り付けた盛り付けで、そのハイカラさが当時話題となりました。その後、神田須田町にあった万惣(まんそう)、そして新宿高野がその盛り合わせを競い合い、さらなる評判となったのです。

フルーツバーもまた、時代を繁栄して誕生した新たなスタイルでした。
タカノフルーツバーが始まったのは1987(昭和62)年のこと。人々の食への興味が高まるなかで、バイキング形式の料理店が東京のあちこちでオープンしました。タカノフルーツバーもそうした流れのなかで誕生したわけですが、他店と異なったのは、あくまで「バイキング」を打ち出さなかったことです。
バイキング形式を導入した大半の店舗は主な客層として20代以上の女性を想定していたことから、多くの量を食べないと見積もっていました。しかし、実際には10代の中高生も利用するようになり、女性客は皆想像以上に食べました。
その結果、バイキングには「質のよくないものを大量に提供する」といったようなイメージが次第と根付いていきました。
おすすめ

New Article
新着記事
Weekly Ranking
ランキング
- 知る!
TOKYO - お出かけ
- ライフ
- オリジナル
漫画