かつては博多でもマイナーな食べ物だった
東京人は健康志向で、野菜を中心とした食生活にしばし関心を寄せますが、その一方、肉料理にも目がありません。とりわけ焼き肉は低価格の店から高級店まで幅広く、身近な存在と言えます。
そんな焼き肉ですが、過去と比べて東京で一般的となったのは内臓肉(もつ)です。
東京は関西以西に比べて、内臓肉を好む人が決して多くありませんでした。現在はそれらを売り物にする店が増えて女性客にも人気ですが、かつてはそうした光景は皆無でした。
そんな東京人が内臓肉のおいしさを知ったのは、1990年代前半に起こった「もつ鍋ブーム」でした。
もつ鍋はもともと博多の名物として知られていますが、東京でブームが起こる数年前までは、博多でもマイナーな食べ物でした。
1985(昭和60)年頃は、福岡市内でもつ鍋を出す店は20~30軒程度で、当時の名物は「水たき」でした。当初、安くておいしいスタミナ料理を求める男性がもつ鍋需要を支えていましたが、大衆化させたのは女性たちです。
もつ鍋はキャベツやニラなど野菜をたっぷりと使っており、もつは脂肪分がそぎ落とされています。結果、高タンパクで低脂肪、低カロリーで、野菜もしっかり取れるとして博多の女性たちの間で評判となったのです。
火が付いたのは銀座の店舗から
この味を東京で広めた店が、銀座にあった「もつ鍋元気」でした。
同店が中央通りに面した銀座8丁目のビルの地下1階にオープンしたのは1991(平成3)年7月で、前身はなんとジャズレストランでした。というのも、店を始めた井上修一さんがジャズの名店「サテンドール」(港区六本木)の社長だったからです。
オープンの3年ほど前、井上さんが下関を訪れたついでに立ち寄った博多でもつ鍋を食べたことがきっかけとなりました。「たかが数百円のもつ鍋は何万円もすぐフグに劣らない」とすっかりほれ込み、独自のもつ鍋店を構想。1990年6月にまず銀座7丁目で最初の店をオープン。それが瞬く間に話題となり、前出のジャズレストランを閉店し、もつ鍋店としました。
もつ鍋店にもかかわらず内装はイタリア料理店風で、BGMはジャズ。調理台も当時珍しかったIHクッキングヒーターで、もつ鍋店特有のガスや煙の匂いと無縁だったこともあり、女性客の間で評判となりました。
行列が連日連夜できるそんな人気を見込んで、二匹目のどじょうを狙う店が都内のあちこちに作られていきます。それを後押ししたのは、バブルの崩壊による景気後退でした。
単にヘルシーなだけでなくとにかく安いもつ鍋は、財布の中身が寂しくなった東京人にとって救いの神となりました。1991年頃から繁華街で徐々に増え始め、1992年になると過剰なまでに。
鍋とお酒でひとり3000~4000円が相場といわれていた価格でしたが、ブームの過熱とともに次第に下落していきます。若者の多い渋谷では1人前1000円以下の価格競争が激化、2000円あれば飲んで食べて楽しめるような状況になりました。
博多から「東京のもつ鍋は辛すぎる」の声
ところが、この東京でのブームは新たな問題を引き起こします。
もつ鍋に使われるのは主に牛の小腸です。ここに大腸やセンマイ(第3胃)、心臓などをミックスして出す店もありますが、牛1頭あたりから取れる量は限られているため、需要が急増してもすぐに対応できるわけではありません。これにより、1993年頃には「もつ不足」、そしてニラの高騰が問題として浮上したのです。
とりわけニラは天候不順で収穫量が減ったため、1992年末には小売価格が急騰する騒ぎも発生。結果、東京では「安い」と大人気にもかかわらず、本場の博多ではブームの影響で値上がりするという現象が起きたのです。
ちなみに、博多の人には「東京のもつ鍋は辛すぎる」「気取って食べるものではない」と辛らつに見られていたようです(『週刊大衆』1993年1月25日号)。
こうしたブームの余波を受けて、もつ鍋は家庭でも鍋料理のラインアップに加わり、内臓肉を扱うスーパーも次第に増えていきます。
食品メーカーは野菜を加えるだけで食べられるレトルト製品を開発し、普及。こうして、もつ鍋のブームを経て東京でも当たり前に食されるようになりました。
近年、肉を語るときに「ここは○○という希少部位」と喜ぶ東京人の楽しみも、その背景にはもつ鍋ブームによって食べるバリエーションが増えたという事実があったといっても過言ではありません。