一瞬ヒヤッ! 首都高はなぜ「右側」の出入口が多いのか
2021年1月31日
知る!TOKYO高速道路の出入口は一般的に「走行車線」とつながっています。しかし東京を走る首都高は所々、右側「追い越し車線」とつながっています。いったいなぜでしょうか。ルポライターの昼間たかしさんが解説します。
背後にあった戦後復興
なぜ首都高はこのような設計になったのでしょうか? 結論を先に言うと、建設を急いだことで、使える用地が限られてしまったためです。
東京都内は、戦後復興が本格化した1950(昭和25)年頃から渋滞が深刻な問題となり、1965年頃にはパンク状態になるとされていました。そのため首都建設委員会が1953年、交通まひを防ぐために「首都高速道路に関する計画」を勧告。1959年には首都高速道路公団(現・首都高速道路)が設立され、1962年に京橋~芝浦間が1号線として開通します。
建設にあたっては、買収が極力不要な用地を確保することが目指されました。そのひとつが河川の上を通過するというものです。

近年は日本橋付近の首都高の地下化が決定するなど、河川の上を首都高が通過することが「景観を壊す」と問題視されています。しかし、計画当時は河川の上を通過することや、河川を暗渠(あんきょ。地下水路)化することは、むしろ歓迎されていたのです。
昭和時点で論議されていた「地下化案」
というのも、当時の東京では下水道整備の遅れから都内を流れる河川に生活排水がそのまま流され、水質汚濁が問題になっていました。とりわけ合成洗剤は河川に大量の泡を発生させ、風に飛ばされた泡が洗濯物を汚すという公害が発生。そうした事情もあり、河川を道路として利用する案はスムーズに採用されたわけです。
この河川利用案ですが、現在の日本橋付近のように川の上を高速道路が走る構造より、さらに1歩進んだ案もありました。
川の部分を干拓して掘割のなかに高速道路を通し、洪水時には道路を封鎖して治水に利用する案もありました。さらに、神田川を高速道路にする案もあったという証言があります。
なお、これらの計画時点でも今回の地下化案はありましたが、予算の都合で断念されたといいます(石原成幸・高崎忠勝「日本橋川にける首都高速道路の上空占用に至る経緯」『都土木技術支援・人材育成センター年報』2015年)。
こうした検討を繰り返しながら、川の上や都電の用地などの限られた土地を使って首都高は建設されたため、複雑な構造になったのです。

また江戸橋ジャンクション(中央区日本橋小網町)のように、日本橋川の水の流れを疎外することなく強度を確保した「立体ラーメン構造」という新技術が生まれたのも、土地が限られていたという背景がありました。
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