かつて「大人の遊園地」 東京・亀戸の街角に刻まれた当時の痕跡を探して【連載】東京色街探訪(4)

江東区亀戸にはかつて、「大人の遊園地」と呼ばれた色街がありました。その痕跡を紀行ライターのカベルナリア吉田さんが辿ります。


かつて栄えた「大人の遊園地」

 遊園地といっても、ジェットコースターで子どもが遊ぶアレではありません。亀戸にはかつて「遊園地」がありました。ただし大人向けの。

 亀戸は古い歴史を誇る場所で、元々は海上の島でした。7世紀には藤原鎌足が香取神社を創建。この頃は「亀島」と呼ばれていましたが、島の湧き水「亀ヶ井」が有名になり「亀井戸村」になったそうです。

電柱に「遊園」の文字(画像:カベルナリア吉田)

 亀戸天神は1661年(寛文元年)創建。学問の神様にして、江戸屈指の行楽地でもあり、 参道には茶屋や料理屋が並びました。それが天神裏にまで広がり、花街となりました。

 そして1905(明治38)年には「亀戸遊園地」の名が付き、子どもではなく大人の男たちでにぎわいます。そこには揚弓処、料理屋旅館、銘酒屋などの名を掲げる私娼屋が並んでいました。当時はそんな、男たちがさまざまな欲望を満たす街を「遊園地」と呼んだのだそうです。

 戦前までは玉の井(現・墨田区東向島)に並ぶ遊郭として栄えました。そして100軒近くの置屋が、200人以上の芸者を抱え、料亭に待合もある「三業地」となります。置屋、料亭、待合の「三業」は組合を作り、その事務所「見番」の建物が、今は町々会館として使われているそうです。

 遊園地は戦争で壊滅しますが、戦後は「カフェー」が並ぶ「赤線」となって生き延びます。 周辺の工場労働者が主な客で「煙突の見える赤線」と呼ばれたそうです。

 戦後はさらに温泉も湧き繁盛しましたが、バブル崩壊で芸者遊びをする人が減り、三業組合も解散します。元見番の町々会館以外に、かつての面影を残すものは見当たりません。

神社の玉垣に残る「遊園地」の残像


【画像】かつての痕跡を探して……東京・亀戸の今

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