石器時代の恐るべき航海技術 孤島の「黒曜石」500kgは、いかにして太平洋を渡ったのか?

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石器時代の恐るべき航海技術 孤島の「黒曜石」500kgは、いかにして太平洋を渡ったのか?

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斎藤潤

紀行作家

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伊豆諸島のひとつ神津島では、極めて硬度の高い黒曜石が採掘されます。それらは石器時代、太平洋を渡り現在の静岡や千葉などの本土へ運び出された記録が残っています。荒波の大海を当時の人々はいかにして航海したのか? 紀行作家の斎藤潤さんが神津島での取材をリポートします。

島外での出土こそ、動かぬ証拠

 新島や八丈島にある資料館の考古学関連のコーナーに行くと、神津島産の黒曜石で作られた石器が展示されています。

 かつて新島村博物館で見た『海上交易 ― 神津島産黒曜石の伝播(でんぱ)』には、以下のように記されていました。

――1万年にも及ぶ縄文時代の中で、伊豆諸島に活発な渡島があったのは前期後半から中期初頭にかけてである。(略)石器の素材として各島から神津島の黒曜石が発見されており、島しょ間でも交流が活発であったことが裏づけられる。

 そして、神津島の黒曜石は静岡・伊豆半島や千葉・房総半島など本土各地や、東京・伊豆大島はもちろん、南に位置する三宅島、御蔵島、八丈島へも運ばれたと図示されていました。

 石器時代人や縄文人は荒海を越えられるはずがないから、なぜ神津産黒曜石の石器が出土するのか不思議だと口にする人もいますが、荒海を越えて運んだから出土するのです。

 島の黒曜石が本土や他の島で見つかること自体が、動かぬ証拠と言えます。

 近代的な機器を全く使わずに、太平洋を自由に航海していたポリネシア人のように、古代人の航海能力は想像以上に優れていたに違いありません。

 筆者が神津島を訪ねたとき、郷土史家の梅田勝海さんが、以下のような話をしてくれました。

ガラスより硬い、良質な黒曜石

「伊豆半島から冒険心に富んだ人たちが、黒曜石を採りにやってきたんでしょうね。優れた造船技術を持つ人たちや交易を生業にしていた民族の存在を感じさせるし、採掘、搬出、加工、頒布などの分業体制も確立されていたのではないかと思います」

 そう考えるのが妥当でしょう。静岡県河津町の段間遺跡は神津産黒曜石の陸揚げ地で、ひとつ19kgもある塊をはじめ約500kgもの黒曜石が出土しているそうです。

「関東地方では縄文中期になると、高品質であることが知られるようになったのか、神津産の黒曜石が劇的に増えてくる。神津のものは硬度が高くて、ガラスより硬いんですよ」

黒曜石で作った石器(画像:斎藤潤)



 黒曜石細工をしている石田史夫さんの工房も訪ねました。石田さんは、黒曜石が大好きなのでしょう。作業台の上には、黒曜石製の花瓶や灰皿だけでなく、手作りした石器や加工しかけの石がたくさん並んでいました。

「ふつう石器を作るときは、鹿の角などを押し当てて割るでしょう。でも、それでは割れないんですよ、神津の黒曜石は硬いから。だから、加工しにくい。十勝産の硬さが7としたら、神津産は10かな。実際加工してみても、信州の和田峠産や十勝産のものはぼそぼそした感じで、こんなにスパッとしていないんです」

 そう言いながら、錐の先を切り落としたような道具を押し当て、黒曜石を割ってみせてくれました。石の刃は鋭く、見るからに硬そうです。

「原石を入手するのも大変なんです。いいものは、恩馳島(おんばせじま。神津島の西にある無人島)の海底に沈んでいるので、まず漁協の許可を得ないといけない。船と人を雇い、アクアラング(潜水具)で10m前後のところに潜ってもらい、原石を採取する。小さいものはけっこうあるんですが、芯のいいところが取れそうな大きなものを採ろうとすると大変です」

危険と隣り合わせの渡島

 高校の郷土学習で、黒曜石について語ることもあるそうです。

「年に2、3時間はやっているかな。子どもたちは、とても面白がってやりますよ。黒曜石の石器は、肉、野菜、魚、何でもよく切れますから」

 そう言って、しま模様の美しい剥片(はくへん)を見せてくれた。

黒曜石の剥片(画像:斎藤潤)



 最高の黒曜石がある恩馳島にぜひ渡ってみたいと、挑戦したことがありました。渡船で恩馳島の目前まで行ったのですが、波が高くて危険だからと止められてしまいました。

 瀬渡し慣れした猛者の釣り人は、次々と小さな岩礁に飛び移ります。この程度の波でも、ときどき海に落ちる人がいると聞いて、諦めがつきました。石器時代人や縄文人たちも、こんな風に波と格闘したり岩に飛びついたりしたのかもしれません。

 もっとも、大昔は神津島の海岸でも品質の高いものが採れたと考えられます。

 至れり尽くせりの装備で目的地をセットしておけば、黙って船がそこまで連れて行ってくれるという時代になってもこんな状況です。

 縄文時代、あるいはそれよりも前の時代、人はどんな手段で荒海を渡り、どんな方法で採石し、どのようにして運び去ったのでしょうか。

 黒曜石細工の石田さんは、下田 ~ 新島沖 ~ 稲取と巡る潮があるので、それに乗ればそう難しいことでもないのではと言っていましたが、それにしても危険を覚悟の採石行だったに違いありません。

人々を魅了した切れ味の真価

 しかし、関東一円を中心に広く散らばっているということは、それだけ人気が高く危険を冒した人間も、また報われたのでしょう。

 なにしろ、一度その切れ味を知ってしまうと、他の道具には手が出なかったはずです。

 黒曜石の産地として有名な隠岐で、筆者も新聞紙を試し切りしたことがありますが、ちょっと力を入れスッと引いただけで、十数枚が簡単に切れてしまい、カッターよりはるかに滑らかな切れ味にビックリしました。

 古代生活の再現実験をした人に、慣れればいとも易々と刺身をおろせると聞いたこともあります。現代のハイテク素材のように、神津産の黒曜石は当時の人々を魅了したのでしょう。

 ちなみに、黒曜石の刃は人類が手にした一番鋭利な刃とも言われ、ヨーロッパなどでは今も眼科の手術などに黒曜石のメスが使われることがあるそうです。

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