いつだって「庶民の味」 江戸で花開いた天ぷらのアツアツ今昔物語【連載】アタマで食べる東京フード(12)
2021年1月10日
ライフ味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。
揚げたて熱々 たちまち庶民はとりこ
当時の天ぷらは、魚に小麦粉を水で溶いた衣をつけて揚げ、串を刺したフィンガーフード。
揚げたての熱々に、大きな丼に入れた天つゆと大根おろしをつけて頬張りました。手を汚さず食べられて、油でカロリーを、魚でタンパク質を取れ、油のしつこさは大根おろしでやわらげる。理にかなったファストフードです。

江戸時代の食事はあっさり味の菜食中心でしたから、あたりに漂う油の匂いからして、さぞやエキゾチックだったことでしょう。素早く出てきて、油を吸った衣となかで蒸された状態になった魚とのコンビネーションが目新しく、ボリュームもある。屋台の立ち食い天ぷらは、江戸っ子の好みにぴったりでした。
幕末からは料亭でも出すようになり、天ぷらはファストフードから座って箸で食べる料理に昇格していきます。
明治になると、天ぷら専門店舗の「天ぷら屋」が出現。注文主の家に出向き、座敷に道具を広げて目の前で揚げる「お座敷天ぷら」という商売も生まれました。しかし、屋台は街から消えず、庶民性が失われることはありませんでした。
有名な天ぷら屋も屋台から始まったところがほとんどで、大正時代に出版された職業案内書『上京して成功し得るまで』には、1日の純益がつねに2円(現在の1万円前後)くらいはあると、「露店天麩羅屋」商売を薦めています。屋台からスタートして店を持つのが、天ぷら職人の立身出世コースだったわけです。
こうして発達した東京の天ぷらは、1923(大正12)年の関東大震災を境に大きくかわりました。
壊滅状態になった東京から、天ぷら職人が大挙して大阪や京都、神戸に移住し、綿実油、大豆油、落花生油、椿油などを使った関西風の淡泊な風味に舵(かじ)を切ったのです。

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