目黒不動尊周辺が約25年間だけ「花街」として栄えたワケ

下目黒の目黒不動尊周辺は、今でも古くからの風情が残るエリアです。このエリアにはかつて花街がありました。フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。


大きなにぎわいを見せる行楽地へ

 寺がにぎわったのは幕府の保護があついだけでなく、行楽地としても優れていたからです。

 この近辺には夕日ヶ丘という景勝地があり、景色がよく富士山を眺められたため、これまで多くの絵師によって描かれています。また周囲には「蛸薬師(たこやくし)」と呼ばれる成就院などのお寺も。少し足を伸ばせば、由緒ある祐天寺も。

歌川広重「冨士三十六景 東都目黒夕日ヶ丘」(画像:演劇博物館デジタル)

 景色を眺めながらいくつものお寺に参詣できる観光地だったこともあり、目黒不動尊の門前はいくつもの店でにぎわいました。現在の下目黒と上大崎にまたがる行人坂(ぎょうにんざか)から目黒不動尊の門前までは、料理屋や土産物屋がぎっしりと並んでいました。

 ただ目黒には遊郭がなかったため、目黒を詣でた江戸の人は品川宿に寄って遊んでいたようです。参詣のあと素通りできない品川宿は「難所」ということで「餅花を 提げて難所へ さしかかり」という川柳も残されています。

 目黒不動尊が栄えたもうひとつの理由は、幕府によって富くじが許可されていたからです。富くじの価格は1朱(1両の16分の1)から1分(1両の4分の1まで)。1等は当初100両でしたが、その後1000両にまで上がりました。当たりくじを決める開札は寺社奉行の立ち会いで、売り出した寺社にて行う決まりのため、開札の日は大勢の人が詰めかけました。

明治以降、寂れた門前町

 こうして江戸時代に行楽地として栄えた目黒不動尊ですが、明治時代の終わり頃から大正時代になると門前町は次第に寂れていきます。というのも、江戸時代に栄えていた不動信仰が衰えて、参詣客がすっかり減ってしまったからです。

明治初期頃に作成された目黒不動尊周辺の旧版地図(画像:国土地理院)

 資料『目黒の近代史を古老にきく2』(目黒区守屋教育会館、1985年)には「明治40年頃までは栄えていた」とありますので、近代化による娯楽の変化が衰退の原因だったのは間違いありません。同地に江戸時代から続く店がないことからも、当時激しく衰退したことがわかります。

 かわって門前町に増えたのは待合や検番(芸者と出先との連絡事務所)で、花街として栄えるようになったのです。花街の規模は大きく、蛸薬師から五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ、同区下目黒)にかけての裏通りはすべて花街。芸者の数も最盛期には100人近くいたといいます。

花街が栄えた理由


【航空写真】約75年前の目黒不動尊を見る

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