他人の痛みがわかってこそ一人前になれる――下町人情と江戸っ子の心意気に涙する『唐茄子屋政談』とは【連載】東京すたこら落語マップ(12)

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他人の痛みがわかってこそ一人前になれる――下町人情と江戸っ子の心意気に涙する『唐茄子屋政談』とは【連載】東京すたこら落語マップ(12)

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櫻庭由紀子

落語・伝統話芸ライター

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落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる話を毎回やさしく解説します。

「お互いさま」を描いた落語

 江戸の頃、経済の中心は日本橋であり、武家屋敷は山の手でした。下町では多くの町人たちが精いっぱい生きており、たくさんの落語の舞台となりました。そこには人情があり助け合いがあり、お互いさまの社会が営まれていたようです。

歌川広重『東都名所之内 隅田川八景 吾妻橋帰帆』(画像:櫻庭由紀子)



 今回は、そんな下町情緒が今も息づく浅草が舞台の落語「唐茄子(とうなす。カボチャ)屋政談」の一席をお送りいたします。

※ ※ ※

 とある商家の若旦那・徳兵衛。仕事もせずに遊んでばかり。放蕩(ほうとう)ざんまいを繰り返す若旦那をどうするのか、親類一同で話し合いが行われた。若旦那を呼んで若旦那の言い分も聞いてみようとするが、当の若旦那は「あたしをここに呼ぶ理由なんてわかっていますよ。出ていきます。出ていけばよいんでしょう」。それを言われてしまえば何も言うことはない。若旦那は勘当となった。

「お天道さまと釜の飯はついてくる」と意気揚々と出てきた若旦那だが、それは商家の看板と金があったときの話。なじみの遊女にも振られ、親類や知り合いを頼っても断られた。食べることもできなくなり、フラフラと吾妻橋にたどり着いた。どうせ生きていても仕方がない。飛び込んで死のうと欄干に足をかけたとき、たまたま通りかかった叔父に助けられた。

 達磨(だるま)横丁の叔父の家に連れてこられ、何日かぶりに食事を口にした若旦那。叔父は「死のうとしているのがお前だったら止めるんじゃなかった」と言いながらも、この先まっとうに働くのなら置いてやろうと諭す。若旦那は「この恩は忘れません。何でも言うことを聞きます」と心を入れ替えることを約束。この日は布団でぐっすりと眠った。

 次の朝、叔父に起こされると早速「唐茄子を売って歩け」と言われる。箸より重いものを持ったことがない立場の若旦那、そんなみっともないまねはできないとちゅうちょするが、できないのなら出ていけと言われてしまう。仕方なく、てんびん棒を担いで外に出た。

 てんびん棒が重たくてフラフラする上に、唐茄子屋の売り声の声もでない。吾妻橋を渡り田原町に入ったときには、疲労困憊(こんぱい)で倒れてしまった。叔父の無慈悲な仕打ちでこんなことになってしまったと、思わず「人殺しぃぃい!」。声に驚いて町人たちが寄ってきた。事情を聴いた町人たちは「そりゃがんばって商いしなくちゃならねえな」と、手分けしてカボチャを拾って買ってくれた。

貧乏長屋の親子を救った若旦那

 カボチャは残りふたつ。少し軽くなったてんびんをありがたいと担ぎ、売り声を練習しようと人気のない田んぼの脇に来た。向こうに見えるは通いなれた吉原遊郭。

「あの頃は、今思えば夢のようだ。花魁(おいらん)と一緒に飲んで歌って……」と昔を思い出しているうちに、唐茄子屋の売り声がいつしか座敷で歌った端唄になってしまう。

 そうこうしているうちに声が出るようになってきた。「とーうなすやーでござい」と誓願寺店(せいがんじだな)に入った。裏さびれた長屋のひとつから、どこか品の良い奥さんが「カボチャをひとつ」と若旦那に声をかけた。

 カボチャを売ったついでに、弁当を使わせてもらおうと玄関に腰掛けると、その家の小さな子どもが若旦那の弁当をねだる。事情を聞いてみると、浪人の旦那が江戸を出て働いているが、送金が滞って店賃(たなちん。家賃)はおろか食べるものも買うことができないと言う。「この子も、もう2日も何も食べていません。ようやくこうしてカボチャを買ったのです」

 ひもじい辛さは身に染みている。若旦那は子どもに弁当をやり、残ったカボチャと売り上げを奥さんに押し付けた。「いただけません。せめてお名前を」という声を背中に聞きながら、若旦那は逃げるように達磨横丁の叔父の家に帰ってきた。

「ああ、徳! よくやったぞ、全部売ってきたのか」と、空になったてんびんを見て叔父は喜び、食事を用意する叔母に「鯵(あじ)も付けてやれ」と労をねぎらう。しかし、長屋の奥さんにお金をやってきてしまったので売り上げはない。これを聞いた叔父は「鯵はなしだ」とおかず付きを撤回。「どうせ遊びに使っちまったんだろう」という叔父に、若旦那は、てんびんを担いで転んでしまったところをたくさんの人に助けられたこと、売り声を稽古して行った先でカボチャがひとつ売れたこと、その家で子どもがひもじい思いをしていたこと、気の毒になって売上金を奥さんに渡してきたことを説明した。

 苦労人の叔父、人の苦労や情を理解できたと踏んだのか「そうか。豪気と威勢がいいな。やったらやった、それで良いんだ」と若旦那に飯を食わせた。見届けようと若旦那と叔父がさっきの誓願寺店までやってくると、何やら長屋が騒がしい。行って聞いてみると、この家の奥さんが弁当とお金をくれた唐茄子屋を追って外に出てみたら大家に会い、大家に店賃としてお金を全てまきあげられてしまった。世をはかなんだ奥さんは子どもと心中をはかったと言う。

 怒り心頭の若旦那、大家の家に飛び込み大家を殴りつけた。そこに長屋の住民も加勢し大乱闘。後日、大家は奉行所で厳しいとがめを言い渡された。親子はご近所の介抱で命を取り留めた。

 親子は叔父が大家をしている達磨横丁に移り住むことになり、若旦那は親子の命を助けたとしてお上から青差し十貫文の褒美をいただいた。人の恩を知った若旦那は性根を入れ替え、勘当も解かれて立派な商人となったという、おめでたいお話。

吾妻橋1丁目付近にあった達磨横丁

●吾妻橋
 落語で何度も出てくる隅田川の代表的な橋。若旦那の徳三郎が身投げしようとする橋です。年末の風物詩「文七元結」でも、文七が集金した金をすられたと勘違いして身投げしようとしていますし、「辰巳の辻占(つじうら)」では男女が心中するふりをして石を投げ入れます。

吾妻橋(画像:櫻庭由紀子)



 隅田川は当時「大川」と呼ばれ、吾妻橋は「大川橋」とも言われていました。「大川には底がない」とは飛び込んだら助からないということ。身投げの名所でもありました。
吾妻橋を超えると向島。その先には、梅の名所として名所江戸百景にも描かれた「亀戸梅屋敷」がありました。

●達磨横丁
 この横丁も、浅草が舞台の落語にはよく登場します。「文七元結」で文七に娘を売った金を渡してしまう長兵衛も達磨横丁に住んでいます。

 浅草の横丁と言えば達磨横丁が登場しますが、当時の切絵図にも記載がありません。落語界オリジナルの架空の横丁なのかと考えてしまいますが、どうやら実在した横丁の通称だそうです。

 佐藤光房著「東京落語地図」によれば、墨田区吾妻橋1丁目の駒形橋寄り付近とのことで、若旦那の叔父さんが吾妻橋に通りかかるくらいに近い場所であることがわかります。現在は区画整理により達磨横丁は消失しています。

●田原町と誓願寺店
 若旦那がカボチャをてんびんにして担いでヒョロヒョロとやってきたのが田原町。現在も駅名として残っています。このあたり一帯は町家、住宅街でした。現在は国際通りとして多くの観光客でにぎわっています。田原町駅にほど近い「本法寺」には、戦時中に噺(はなし)家たちが禁演落語を葬った「はなし塚」があります。寺の塀にびっしりと書かれているのは、はなし塚に刻まれた噺家たちの名前です。

 誓願寺店とは、誓願寺前にあった町家全体のこと。誓願寺は、徳川家康が1592(文禄元)年に神田白銀町に創建した寺院で、神田須田町への移転(慶長元年)を経て、1657(明暦3)年の大火により浅草へ移転しました。関東大震災で府中市紅葉丘に移転し現在に至っています。

 現在は、西浅草八幡神社が残されています。八幡神社はもともと誓願寺内にありましたが、明治維新前に誓願寺から分離しました。浅草神社の兼務社です。

 ところで、若旦那が売り声を稽古した田んぼは切絵図を見ても誓願寺あたりには見当たらず、あるとすれば浅草寺を超えたあたりです。田んぼの脇に座り込んで吉原を懐かしく眺めていたということなので、ずいぶんと歩き回ったようです。

●吉原
 若旦那が通い、勘当されてからはてんびん棒が食い込んで腫れあがった肩をさすりながら眺めた吉原。浅草寺の裏手にある、幕府公認の遊郭です。周りは田地となっており、吉原の周りは、「おはぐろどぶ」で囲われています。

 吉原へは徒歩でも向かいますが、大店(おおだな)の旦那や若旦那などの富裕層は、山谷掘を猪牙舟(ちょきぶね)に乗って向かうのが粋とされました。現在では山谷掘は埋め立てられ、山谷堀公園となっています。

元ネタは講談の「大岡政談」

 元ネタは講談の「大岡政談」もの。落語では政談の部分はなく、人情噺に仕立てられています。

 この噺は、全てかけると1時間ほどにもなる長講です。寄席でかける場合は、若旦那が遠くの吉原を見て売り声を練習しているうちに端唄になってしまうという笑える場面でサゲます。聴きどころが多い噺であり、所作もむずかしく、大根多(ネタ)の部類に入るでしょう。落語家なら一度は挑戦したい演目です。

 聴きどころとしては、まず所作の細かい演出です。若旦那が叔父さんにカボチャを売って歩けと言われて担ぐてんびん棒。最初はカボチャが入っているのですから若旦那が思わず「人殺し」と叫んで倒れてしまうほど重たくなっています。そして、カボチャをみんなが拾ってくれて残りふたつになると少し軽く、でも売り声を出す勇気がありません。最後はカボチャを誓願寺棚でおなかをすかせた親子にあげてしまい、空のてんびん棒を担いで達磨横丁に戻ってきます。

 この一連のてんびん棒の重さと軽さをどう所作だけで表現するのかが、落語家の腕の見せ所です。最初はてんびん棒が肩に食い込むくらいしなっており、体全体で支えます。次に少し軽くなると腕と肘がいくらか上がり、帰りは片方の腕だけで持って歩くことができます。

棒手振り(画像:櫻庭由紀子)



 また、棒は首の近くで担いでしまうのか、首から少し離して肩全体で担げるのかで素人か年季の入った棒手振り(魚・青物などを、てんびん棒で担いで売り歩く人)なのかの違いを表現することができます。師匠から稽古を受ける際は、腕の角度、棒を支える親指の使い方などを細かく教わるそうです。

苦労は薬、人の痛みがわかって一人前に

 そして、この人情噺が名作とされるゆえんは、叔父さんの人柄の描き方にあるのではないでしょうか。

 当時の勘当と言えば、ただ家から追い出す、戸籍から外すだけではありません。人別帳から削除することを言い、削除されてしまうと無宿人となります。つまり、戸籍自体がなくなってしまい、職に就くことも家を借りることもできなくなってしまいます。勘当とは、そこまで覚悟を持っての手段なのです。

 叔父さんは、「お前とわかっていたら助けるんじゃなかった」と言いますが、親の恩がわかったか、と諭して自分の家に連れて帰ります。

 その日は何も言わず飯を食わせて早く寝かせて、朝になったらいよいよ商い。若旦那に商いの仕方をほそぼそと指示しながら、「暑さにあてられないようにかさの中に青菜を2、3枚入れてやんな」「弁当は腐らないように梅干しのひとつでも入れてやれ」と、子どもを初めて学校に行かせる親のようです。

 落語の中では、勘当息子や与太郎(よたろう)の世話を焼くのは大概叔父さんと相場が決まっているようですが、この叔父も若旦那に厳しいことを言いながらも気にかけており、愛情やいたわりが顔を出すところにじんわりとした趣を感じます。

歌川広重『東都名所 真土山之図』(画像:櫻庭由紀子)



 1891(明治24)年の速記では、売上金をあげてきたという若旦那に「人間は苦労すると薬だなあ。わが身をひねってみなければ人の痛えのがわからない。これでお前も人間になった。よくそこに気が付いた」と叔父に言わせています。

 若旦那が勢いよく大家の家に飛び込んだもののたんかが切れず、「ええい」とやかんで大家の頭をぶん殴ってしまうところでは、聴いているこちらも思わず泣き笑いです。

 情けは人のためならず、巡り巡って己がため。唐茄子屋政談の一席でございます。

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