コロナ禍のドラマ「#リモラブ」が教えてくれた 人はなぜひとりで生きていけないのか

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コロナ禍のドラマ「#リモラブ」が教えてくれた 人はなぜひとりで生きていけないのか

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田島悠来

帝京大学文学部社会学科講師

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現在放送中の2020年秋期ドラマも、話題作がめじろ押しです。特に注目したいのは、新型コロナウイルスによって変化した人々の暮らしぶりや、人と人との距離感、それに触れ合いの描かれ方。コロナを通して考える「ディスタンス(距離)」について、帝京大学講師の田島悠来さんがふたつの作品を基に論じます。

人と人の距離を遠ざけたコロナウイルス

 新型コロナウイルス感染症の影響により、私たちは“新しい生活様式”を取り入れることを好むと好まざるとにかかわらず余儀なくされました。時に種々の困難さに心を疲弊させながらも適応していくことが求められています。

 こと東京は、世界的にみても人口密度が極めて高い都市。感染防止のために他者と物理的な距離をある程度保つ(「密」を避ける)ことひとつ取ってみても容易ではなく、より神経が磨り減るような毎日を送っている人も多いのではないでしょうか。

 そのような日々のなかで、テレビドラマは、娯楽・エンターテインメントとして人の心を癒しつつ、同時に、日常に心地よく首尾よく忍び込み時代や社会を映す鏡として機能しています。

 私たちにさまざまな気づきを与え、そしてこの世界のあり様や人との関わり方について問い直すきっかけを与えてくれます。

 秋のテレビドラマが開始して、はや1か月余り。本記事では、昨今の日本のテレビドラマの傾向を踏まえながら、今期放送中の作品から、コロナ禍の大都市における現在進行形の人と人との距離(ディスタンス)について考えてみましょう。

 その際、特に他者とのコミュニケーションや関係性の描写が物語のなかで重要な要素となってあらわれる恋愛ドラマに焦点を絞ってみていきます。

変わりつつあるドラマ人気ジャンル

 若い男女の恋愛と都会でのおしゃれな暮らしぶりを軸にして高視聴率を記録したトレンディードラマ全盛期も今は昔。

 2000年代以降の日本のテレビドラマは、医師や刑事、弁護士といった専門的な職業の者たち(現実的にはさほど多く存在するはずもなく!)の奮闘する姿と、その現場で繰り広げられる非日常的で劇的な出来事や事件、その謎の解明をスリリングに描く作品群が人気を博し、シリーズ化されるという傾向がありました。

 しかし近年、2016年の秋ドラマ「逃げ恥」こと『逃げるは恥だが役に立つ』(TBSテレビ系火曜22時)や2020年夏期の『私の家政夫ナギサさん』(同)をはじめとした恋愛ドラマが注目を集めるようになり、少しずつ変化の兆しが見え始めてもいます。

多様性や社会問題を描く近年の作品

 これらのドラマは、何気ない日常にフォーカスしながら、そうした日常のなかで疑問視されることなく片付けられてきた「普通」(例えば、「逃げ恥」ならば専業主婦の無償労働や「好き」の搾取など)を問うという作風が特徴。

 社会システムの歪みや軋みに敏感になっている、またそうならざるを得ない者たちの心に刺さり、共感を得ていきました。

 そして、登場人物たちの恋愛模様を通じて、ジェンダーやセクシュアリティーについても丁寧に「問い」を投げかけながら、あらためて向き合い、捉え直す余地を残した内容になっています。

 たとえば、男性同士の恋愛を描くストーリーでその後シリーズ化もされた、『おっさんずラブ』(2016年~、テレビ朝日系土曜ナイトドラマ)や『きのう何食べた?』(2019年~、テレビ東京系ドラマ24)。

 これは、性をはじめ多様性への社会的な関心の高まりや、ドラマの枠が深夜帯まで広がったことも手伝って、いわゆる「やおい系」コンテンツやBL(Boys Love)モノを好む層以外にも受容されるようになった社会の変化を物語っていると言えるでしょう。

(ただし、これらは少女漫画が原作であるケースが多いなど、親和性は高いわけですが。)

未曽有のコロナ禍をドラマはどう描くのか

 コロナ禍で放送や撮影の中断や延期を強いられるなかで、一時は時計の針が止まってしまった、または、逆戻りするがごとく過去ドラマの再放送がなされる時期(「逃げ恥」も!)を経て今に至るわけですが、今期は再び恋愛ドラマの放送が比較的目立っています。

 コロナ感染拡大以降の世界をドラマとして描写する際には、

1.現実に即してコロナの存在する世界を描くのか
2.コロナが存在しないいわばパラレルワールドを描くのか

大きく分けるとふたつのスタンスが考えられます。

 ここからはその両者、1については『#リモラブ~普通の恋は邪道~』(日本テレビ系水曜22時、「リモラブ」)を、2については『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(テレビ東京系木ドラ25、「チェリまほ」)を取り上げてみましょう。

「人の気持ちが分からない」女性の奮闘

 少なくとも2020年夏クールまでの日本の地上波ドラマは上記の2に限られていたわけですが、「リモラブ」で描かれるのはコロナ禍の世界。

 初回から世界的な規模での感染拡大、マスク着用・消毒・手洗い・計温・ソーシャルディスタンスの徹底、緊急事態宣言、ステイホーム、在宅(テレ)ワーク、飲食店の休業、リモート会議・飲み会……など、私たちがまさに数か月前から経験してきた事柄(「いまここ」)がほぼ同じ時間軸に沿って展開されます。

“新しい生活様式”の名のもとに「普通」として受け入れざるを得なくなった世界が、人がいなくなりそして徐々に戻っていく社内の風景を織り交ぜながらリアルに描き出されていきます。

 この物語の主人公は、鐘木パルプコーポレーション健康管理室の産業医である大桜美々(波瑠)。

ドラマ「リモラブ」で主演を務める女優の波瑠(画像:三城ホールディングス、ホリエージェンシー)



 容姿端麗(「美人すぎる産業医」)、高学歴でプライドが高く、周りにいる男性を「回転寿司」「豚骨ラーメン」「脂身の多いトンカツ」「その横に添えてあるキャベツ」「ビーフジャーキー(ハワイ産)」と食べ物に例えてクールに品定めするステレオタイプなリケジョ(理系女子)として表象されます。

 コロナ禍においては産業医としての職務を生真面目に全うしようと奔走するものの、同僚たちから「健康管理室の独裁者」「鉄仮面」「人の気持ちがわからない」「ぼっち」と散々陰口を叩かれ、煙たがられてしまいます。

人との距離を縮めたいという衝動

 そんな美々が心待ちにするのは、いつか「私を虜(とりこ)にしてくれる超絶にイカした極上のステーキが目の前に現れる」こと、つまり理想の男性との出会いを果たすこと。

 しかし過去の失敗から現実世界のリアルな男性と恋愛関係を築くことを億劫に感じるようになり、ひとり暮らしの自宅で動画を見たりゲームをプレイしたりと、オンライン空間を好むようになっていました。

 そんな折、くしくもステイホーム期間中にSNSを通じて知り合った「檸檬(れもん、ハンドルネーム)」と、「草モチ(美々のハンドルネーム)」としてオンラインで何気なくやり取りするうちに心惹かれるようになっていった美々。

 ひょんなことから檸檬が実は社内の誰かであることに気づき、2次元のどこの誰だかわからない相手に恋焦がれる「普通」ではない自分に戸惑いを覚えつつも、檸檬探しに腐心していきます(執筆時点では第3話まで放送終了)。

 他者との間に精神的な隔たりをあえて設けることで、不器用で傷つきやすい自分自身を守ろうとしてきた美々が、ソーシャルメディアを介して「ディスタンス」を保ちながら、コロナをきっかけに次第に変わっていき、自分が作り上げた壁を壊して距離を縮めたいという衝動が高まっていく様子が描かれています。

さえない男性が心通わせた相手とは

 一方、「チェリまほ」は、コロナが存在しない、以前まで私たちが当たり前としてきた世界が舞台になっています。

 物語の主人公である平凡でさえないサラリーマン安達清(赤楚衛二)は、女性との性体験なく(つまりは童貞のまま)30歳を迎えたことで、人に触れると相手の心が読める魔法が使えるようになった男性。

 ふとしたことがきっかけで、社内一のイケメンで「女子受け」も「上司受け」もいい営業部のエースの同期・黒沢優一(町田啓太)の心の声を聴き、自分への恋心に気づき困惑しながらも心を通わせつつあります(執筆時点で第4話まで放送終了)。

 原作は『ガンガンpixiv』で連載中の豊田悠による同名コミック。

ドラマ「チェリまほ」の原作コミック(画像:BookLive、豊田悠、スクウェア・エニックス)



 劣等感を抱く主人公が理想的な人と出会い、相手から全面的に肯定されることにより(多くの場合は恋愛の成就というかたちで)自信や自己を獲得するに至るという少女漫画の王道的なプロットと、彼が男性であるからではなく、彼であるがゆえに好きなのだという同性愛的要素をマイルドに中和したBL漫画にありがちなプロットとを併せ持つ作品です。

 これにより、非現実的(「ここではないどこか」)でありながらもファンタジーとして受け入れやすい世界観を作り上げていると言えます。

 その点「いまここ」のリアルにこだわった「リモラブ」とは対照的な作品として捉えられます。

人と関わる煩わしさ、触れ合うことの意味

 ただ、現代的な文脈をより意識して「チェリまほ」を見ると、また違った見方ができるのではないでしょうか。

 恋愛至上主義という「普通」に疑義を呈する部分もある主人公・安達の言動は、一方で、必要以上に空気を読むことや人と関わっていくこと自体に面倒さを感じてしまうという、現代社会に生きる多くの若者たちが抱く思いを代弁しているかのよう。

 安達が手にした能力(魔法)は、そうした他者の心の内が分からないがゆえの煩わしさからの解放を意味していると解釈できます。

 そして何よりも、その魔法は、相手の身体に触れるという行為、つまり距離を縮めようとすること無しには使用できず、コロナ禍の「いまここ」では容易に叶わないからこそ、今日の大衆的な願望となって投影されていきます。

少しだけ縮まった距離が象徴するもの

 コロナ禍においては、これまで何の疑いもなく「普通」であると、また常識的で好ましいと推奨されてきた振る舞いが、一転して「普通」ではなく非常識であると捉えられるようになったこともあるでしょう。

 従来通りの「普通」を追求しようとすればするほど、生きづらさが増していってしまうかもしれません。

 しかしそう悲観的になりすぎる必要はないのではないでしょうか。「普通」が揺らぐ今だからこそ、「普通」に縛られ窮屈になっていた日々を見つめ直す好機になる可能性が秘められているのだから。

「チェリまほ」の安達と黒沢が夜の東京タワーを背景に少しだけ心のディスタンスを近づけたシーンは、そのことを象徴しているように映ります。

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