「新選組」唯一の生き残りは、なぜJR板橋駅前に石塔を建てたのか?

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「新選組」唯一の生き残りは、なぜJR板橋駅前に石塔を建てたのか?

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合田一道

ノンフィクション作家

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「新選組」唯一の生き残り・永倉新八は、晩年、北区滝野川に立派な碑を建てました。かつての盟友、近藤勇と土方歳三の名を刻んだ供養塔。新八はどのような思いで建立したのか、ノンフィクション作家の合田一道さんがその軌跡をたどります。

生粋の武士を貫いた、ある男の生涯

 JR埼京線板橋駅のすぐそば、北区滝野川に、「近藤勇宣昌、土方歳三義豊之墓」と刻まれた大きな供養碑があります。

 建立したのはご存じ、新選組創立メンバー唯一の生き残りの永倉新八(ながくら しんぱち)です。老境の新八はどのような思いでここに碑を建てたのでしょうか。

※ ※ ※

 新八が近藤、土方と意見を異にして新選組を離れたのは、戊辰戦争が起きて2か月後の1868(慶応4)年3月。新八は靖兵隊(せいへいたい)を組織して二十数人とともに戦火の奥羽(おうう、現在の東北地方)へ赴き、新政府軍と戦います。

晩年の永倉新八(前列中央)。札幌市内の写真館で撮影(画像:合田一道)



 だが敗れて散り散りになり、実家の江戸下谷(したや、現在の台東区の町名)の松前藩長屋に戻ります。

 新選組の隊士のほとんどは農民出ですが、新八は松前藩江戸定府取次役150石取りの藩士の息子で、れっきとした武士でした。

 その新八を、新政府方がつけ狙います。

 同年9月、明治と改元。松前藩江戸家老の下国東七郎は追われる身の新八を心配し、こう持ち掛けます。

婿養子として北海道へ渡る

「わが松前藩の福山城が、榎本武揚(えのもと たけあき)率いる旧幕府脱走軍の襲撃で落城した。この戦いで藩医杉村松柏の嫡男(長男)が討ち死にした。この家の婿養子になり、杉村家を継いでくれまいか」

 新八は旧政府脱走軍の動向を聞いていただけに、驚きながらもこの誘いに応じます。

 そして1871(明治4)年、蝦夷地から名を変えた北海道へ初めて赴いたのです。

 ここで杉村家の娘よねと結婚して杉村義衛と名乗り、廃藩置県により松前藩から変わった館藩庁の小隊曹長を務めます。

 その後、家督を継ぎ、やがて一家は小樽へ移住しました。

 1882年、新八は樺戸集治監(監獄)の剣術指南になり、看守に剣術を教えます。獄内の受刑者たちは「新選組の永倉新八」と聞いて震え上がったといいます。

 4年後に集治監を退職した新八は単身、東京へ赴きます。その途中、函館に立ち寄り、土方歳三らが眠る碧血碑(へきけつひ)にもうでます。

 上京して牛込に居宅を構えた新八は、近藤が処刑された板橋の地を選んで、供養碑を建てる仕事に取り掛かりました。

 石材を選び、碑面の題字を旧会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)に依頼するなど懸命に努力します。

13年ぶり、小樽への帰還

 やがて供養碑が完成しました。見上げるような立派な碑でした。

新八が建てた近藤、土方の供養塔。現在のJR板橋駅近く(画像:合田一道)



 安堵した新八は、京阪へ足を延ばし、ここでひとりの女性と会います。新選組時代に芸者との間にもうけた娘の磯子で、尾上小亀と名乗る舞台女優になっていました。

 新八が小樽に戻ったのは1899(明治32)年。家を13年間も留守にしていたことになります。すでに61歳になっていました。

 以後、新八は家族に囲まれて穏やかな日々を送りながら、新選組時代の同志の氏名や消息を書き続けました。

 また札幌で開かれた剣道大会に顔を見せたり、招かれて札幌農学校の剣道部の練習に出掛けています。

 武士の魂は老いてなお燃え続けていたのです。

 そんなそき、小樽新聞の加藤眠柳(かとう みんりゅう)記者がやってきて、連載記事を掲載したいと伝えます。

 新八は快諾し、加藤は日参して話を聞いてまとめ、1913(大正2)年3月から6月にかけて「新選組永倉新八」の表題で70回にわたり連載しました。

 あの新選組の永倉新八が北の果てに生きていた! 新聞で知った人たちは驚きの声を上げたといいます。

新選組ブーム、再び浴びた脚光

 新八が亡くなったのは、連載を終えて1年半後の1915年1月。享年77。長男義太郎はこの連載をまとめて冊子にし、13回忌法要の際に知人に配りました。

1913年、小樽新聞に連載された永倉新八の記事(画像:合田一道)



 昭和も戦後になり、新人物往来社(千代田区)がこの本を基に『新選組顛末記 永倉新八』として出版して話題になり、折からの新選組ブームに乗って爆発的な反響を呼んだのでした。

 札幌には、新八を曽祖父(数えて4代目)に持つ人がいます。杉村悦郎さんと、杉村和紀さん。祖父母が兄妹なので、またいとこの間柄になります。

 ふたりは『新選組永倉新八のひ孫がつくった本』(柏艪社、札幌市)を出版しています。

 悦郎さん宅には新八が着用した着物が現存するほか、なぜか捕り方(罪人を捕らえる役人)が用いる十手があるのです。誰が、どう使ったのかは分かりません。

 ところでだいぶ前の話ですが、新八の永倉姓について、岡山市に住む子孫・長倉達郎さんから意外な話を聞かされました。

「新八の姓は長倉が本当なのですが、新選組に入るとき、実家に迷惑が掛かっては困ると思い、永倉にしたのです」

 その後、岡山市の長倉家墓所に「永倉新八供養碑」が建立されたと伝えられました。達郎さんが建立したもので、碑面にこう刻まれています。

新八の血を引く“本家”の本懐

「武士の節を尽くして厭までも貫く竹乃心一筋 新選組副長助勤 永倉新八源載之」

 これは若き日、新八が幕府徴募の浪士隊(ろうしぐみ)に加わり、近藤や土方とともに上洛するときに記した文面といいます。

 碑を建てた理由は、同家には娘しかおらず、結婚して姓がなくなる可能性があるので、家族名を刻んだということでした。

 時代は移りましたが、新八を輩出した本家としての“思い”を感じます。

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