「新選組」唯一の生き残りは、なぜJR板橋駅前に石塔を建てたのか?

「新選組」唯一の生き残り・永倉新八は、晩年、北区滝野川に立派な碑を建てました。かつての盟友、近藤勇と土方歳三の名を刻んだ供養塔。新八はどのような思いで建立したのか、ノンフィクション作家の合田一道さんがその軌跡をたどります。


婿養子として北海道へ渡る

「わが松前藩の福山城が、榎本武揚(えのもと たけあき)率いる旧幕府脱走軍の襲撃で落城した。この戦いで藩医杉村松柏の嫡男(長男)が討ち死にした。この家の婿養子になり、杉村家を継いでくれまいか」

 新八は旧政府脱走軍の動向を聞いていただけに、驚きながらもこの誘いに応じます。

 そして1871(明治4)年、蝦夷地から名を変えた北海道へ初めて赴いたのです。

 ここで杉村家の娘よねと結婚して杉村義衛と名乗り、廃藩置県により松前藩から変わった館藩庁の小隊曹長を務めます。

 その後、家督を継ぎ、やがて一家は小樽へ移住しました。

 1882年、新八は樺戸集治監(監獄)の剣術指南になり、看守に剣術を教えます。獄内の受刑者たちは「新選組の永倉新八」と聞いて震え上がったといいます。

 4年後に集治監を退職した新八は単身、東京へ赴きます。その途中、函館に立ち寄り、土方歳三らが眠る碧血碑(へきけつひ)にもうでます。

 上京して牛込に居宅を構えた新八は、近藤が処刑された板橋の地を選んで、供養碑を建てる仕事に取り掛かりました。

 石材を選び、碑面の題字を旧会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)に依頼するなど懸命に努力します。

13年ぶり、小樽への帰還


【画像】「新選組」唯一の生き残り、貴重な遺品(2点)

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