麻布・広尾・目黒に「高級住宅街」「下町」の真逆イメージが両方根付いた歴史的経緯(中編)

麻布・広尾・目黒という土地のイメージと歴史について考える、ジェイ・エム・アール生活総合研究所社長の松田久一さんの連載(全3回)。2回目のテーマは、江戸の町の発展について。


身分によって住む場所が区分された

「四神相応」も「江戸五色不動」も、天海の影響も歴史的証拠のないものです。しかし、民衆レベルでは、方角、縁などの宗教的な観念がさまざまな影響を及ばしたことは疑い得ないでしょう。

 江戸は、幕府が切り開いた土地であり、封建制度のもとで土地の所有県はすべて幕府にあり、私有制ではありませんでした。

 従って、土地利用は、幕府が「町割り」によって決め、「武家地」と「町人地」を分け、庶民は、町人地の一部の長屋に住むということが基本でした。

 江戸城の西、武蔵野台地を構成する麹町台地にある麹町・番町(千代田区)は武家地で、しかも徳川の家臣が居住しました。富裕層や階層が高い層が住む地域の意味を持つ「山の手」の第1号は、麹町・番町でしょう。

 四谷あたりになると町人地になり、長屋がありました。

 そして、現在の国会(千代田区永田町)周辺は武家屋敷で、しかも徳川譜代大名であり、紀伊藩・尾張藩・井伊藩の藩邸跡です。

 現在の中央区日本橋あたりは、武蔵野台を下った低地であり、町人地であり、大店が営業し、「ぼって振り」が仕入れて、売り歩く下町でした。その奥に長屋がありました。

 このように身分によって住む場所が区分されていました。区分の原則は、台地は武家地が多く、低地は町人地が多いということになりました。

 麻布は、人口が少なく、武家地、町人地、そして寺地が混在していました。武家地も、東北、中国、九州などの外様(とざま)の武家屋敷で、しかし、米や物資を保管するための広大な土地を有する倉庫のようなところでした。

 麻布よりも外にある広尾や目黒になると、基本は「原っぱ」、「鷹狩り場」、「寺地」でした。

富裕層の住む「山の手」


【地図】麻布・広尾・目黒の位置関係

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