20年前に滅んだ花街「柳橋」 時代におもねらず、江戸の粋を最後まで貫いた誇り高き魂をもう一度
2020年10月20日
知る!TOKYO約20年前まで台東区に柳橋という、粋で誇り高い花街がありました。その歴史について、フリーライターの本間めい子さんが解説します。
高度経済成長期から見えた陰り
この背景には、それぞれのひいきの違いがありました。
柳橋のほうは町人の旦那衆、新橋のほうは役人が多いという具合です。明治になって成り上がった役人にひいきにされる新橋よりも、代々遊び慣れた旦那衆に支持される柳橋のほうが格だけでなく、粋も上だという矜恃(きょうじ)があったというわけです。まさに江戸の町人根性こそが柳橋を支えていたと言えるでしょう。
最盛期とされる1928(昭和3)年には料理屋と待合が合わせて62軒、芸妓が366人という大規模な花街になっていました。
花街の範囲はだいたい江戸通りの東側、総武線の南の一角です。決して広くはない範囲に多くの店と人とがひしめき合っていたのです。
そんな花街の一大イベントが隅田川の花火大会で、柳橋の料亭などで作る組合が花火を上げている時期もあったほどです。花火大会の日になると柳橋には多くの人が集まり、足の踏み場もありません。川に面した料亭の前には桟敷ができて、川には1000隻を超える船が出て花火大会を見物していたといいます。

ところが、高度経済成長期(1955年~)を迎えると、そんなにぎわいにも陰りが見えてきます。それまで柳橋の象徴的な風景だった川の汚染が酷くなったのです。
当時、生活排水や工業廃水が垂れ流しになっていた隅田川は、ひどく汚れていたといいます。川の水は黒く、あちこちで浮くメタンガスの泡。おひつのタガ(おひつの周囲を留める金属の輪)を朝磨くと夜には黒くなっていたと言いますから、どれだけ激しかったか想像できます。
この川の汚染だけでなく、周囲の工事の増加による交通渋滞が問題になったことを理由に、隅田川花火大会は1962(昭和37)年から1978年まで中断となります。そんな状況もあって、次第に柳橋は衰退していったのです。

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