20年前に滅んだ花街「柳橋」 時代におもねらず、江戸の粋を最後まで貫いた誇り高き魂をもう一度

  • 未分類
20年前に滅んだ花街「柳橋」 時代におもねらず、江戸の粋を最後まで貫いた誇り高き魂をもう一度

\ この記事を書いた人 /

本間めい子のプロフィール画像

本間めい子

フリーライター

ライターページへ

約20年前まで台東区に柳橋という、粋で誇り高い花街がありました。その歴史について、フリーライターの本間めい子さんが解説します。

いまは無き「幻の花街」

 かつて東京のあちらこちらに、粋な遊びを好む人たちが集い、三味線の音が鳴る芸者町がありました。

 代表的な芸者町は、

・芳町(現・日本橋人形町の一部)
・新橋
・赤坂
・神楽坂
・浅草
・柳橋

の六つ。これを総称して「東京六花街」と言います。

 かつてほどではありませんが、これらの街はいまだに粋な人たちでにぎわいを見せています。柳橋を除いては。

 柳橋は現在の台東区柳橋にあり、ここだけはすべての料亭が姿を消し、「幻の花街」となっているのです。

現在の台東区柳橋の風景(画像:(C)Google)



 柳橋の地名は、神田川が隅田川と合流したところに架けられた橋にちなんでいます。

 この場所が花街になったのは、江戸時代の1824(天保13)年頃のこと。老中・水野忠邦による天保の改革で深川の岡場所(幕府非公認の私娼街)が禁止され移住してきた芸妓(げいぎ)たちによって形成されました。

 深川は岡場所でしたが、同時に芸を売る芸妓たちも多くいました。深川は材木商人たちが多く集まっていたこともあり、当時の商談において芸妓はなくてはならない存在だったからです。

 芸は売るが身は売らない――薄化粧で身なりも地味、冬でも足袋を履かないことを美学にする彼女たちは辰巳芸者と呼ばれ、粋を極めた存在でした。

 そんな彼女たちによって始まった柳橋ですが、隅田川に面した立地は景色もよく風光明媚(めいび)で、大いににぎわいました。

 明治時代になり新たに新橋にも花街ができ、こちらも人気になると「柳新二橋(りゅうしんにきょう)」と称されるようになりました。しかし格は柳橋の方がはるかに上で、もしもお座敷で同席した際は新橋のほうが三寸下がるという不文律もありました。

高度経済成長期から見えた陰り

 この背景には、それぞれのひいきの違いがありました。

 柳橋のほうは町人の旦那衆、新橋のほうは役人が多いという具合です。明治になって成り上がった役人にひいきにされる新橋よりも、代々遊び慣れた旦那衆に支持される柳橋のほうが格だけでなく、粋も上だという矜恃(きょうじ)があったというわけです。まさに江戸の町人根性こそが柳橋を支えていたと言えるでしょう。

 最盛期とされる1928(昭和3)年には料理屋と待合が合わせて62軒、芸妓が366人という大規模な花街になっていました。

 花街の範囲はだいたい江戸通りの東側、総武線の南の一角です。決して広くはない範囲に多くの店と人とがひしめき合っていたのです。

 そんな花街の一大イベントが隅田川の花火大会で、柳橋の料亭などで作る組合が花火を上げている時期もあったほどです。花火大会の日になると柳橋には多くの人が集まり、足の踏み場もありません。川に面した料亭の前には桟敷ができて、川には1000隻を超える船が出て花火大会を見物していたといいます。

現在の隅田川花火大会(画像:写真AC)



 ところが、高度経済成長期(1955年~)を迎えると、そんなにぎわいにも陰りが見えてきます。それまで柳橋の象徴的な風景だった川の汚染が酷くなったのです。

 当時、生活排水や工業廃水が垂れ流しになっていた隅田川は、ひどく汚れていたといいます。川の水は黒く、あちこちで浮くメタンガスの泡。おひつのタガ(おひつの周囲を留める金属の輪)を朝磨くと夜には黒くなっていたと言いますから、どれだけ激しかったか想像できます。

 この川の汚染だけでなく、周囲の工事の増加による交通渋滞が問題になったことを理由に、隅田川花火大会は1962(昭和37)年から1978年まで中断となります。そんな状況もあって、次第に柳橋は衰退していったのです。

粋を誇り、時代におもねらず

 衰退を決定づけたのは、隅田川の改良工事でした。

 高度経済成長期になり、それまで水害の絶えなかった都内の各地では対策工事が進み、隅田川沿いは高潮対策で堤防が築かれることになります。

 高潮対策が進み、臨海部にタワーマンションが立ち並ぶようになった現在ではにわかには信じがたい話ですが、かつての東京は高潮の被害を受けやすい土地だったのです。

 そこで東京都では1960年から隅田川沿いの護岸を一斉に整備する第2次高潮対策事業を実施します。このときに、地盤の軟弱な土地に対応するため、逆T字の鉛直型の堤防が川沿いに築かれました。これが、俗に「カミソリ堤防」といわれる堤防です。

 川に面して風情があった柳橋のかつての風景は背の高い堤防に囲まれ、一変してしまいました。この後、水質が改善したことで船宿は次第に復活していきましたが、花街は違いました。

 20世紀も終わりになると、花街で遊ぶことは古いスタイルとなっていきます。それでも、多くの花街は観光客を受け入れて敷居を下げ、命脈を保とうとしていました。

 ところが、柳橋はそうしませんでした。もともと粋の総本山のような側面があった柳橋は、芸者出身の歌手が昭和初期に出るようになっても、二足のわらじを履くことを許しませんでしたし、一見さんお断りという原則も崩すことはありませんでした。

 こうして1999(平成11)年に最後の料亭が店を閉じ、芸妓組合は解散。柳橋の歴史は幕を閉じることになりました。

現在の台東区柳橋(画像:(C)Google)



 堤防によって景観が断たれた要素は、確かに大きいでしょう。しかし、時代の流れに合わせてライトな方向へとかじを切っていたら、柳橋は現在も続いていたかもしれません。

 しかし粋を誇り、時代におもねることをよしとせずに滅びることを選んだ矜恃の方がなんだかカッコよく見える――こう思うのは筆者だけでしょうか。

関連記事