韓流の聖地・新大久保「イケメン通り」が南北に細長くなっているワケ

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韓流の聖地・新大久保「イケメン通り」が南北に細長くなっているワケ

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室橋裕和

アジア専門ライター

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韓流ブームの聖地といわれる東京・新大久保。中でも「イケメン通り」と呼ばれる路地には、若い女性たちで賑わっています。それにしても妙に細いこの通り、なぜこのような形になったのでしょう? 名前の由来は? アジア専門ライターの室橋裕和さんが解説します。

まるで「ウナギの寝床」のような構造

 都内の新型コロナウイルス感染者数がやや落ち着き始めた2020年9月半ば頃から、新大久保に人出が戻ってきました。

 特に週末は韓流文化を楽しむ若い女性で賑わいますが、彼女たちがとりわけ多いのは通称「イケメン通り」と呼ばれる路地です。

いつも若い女性で賑わうイケメン通り。人気店には行列もできる(画像:室橋裕和)



 北側を走る大久保通りと、南の職安通りを結ぶ道なのですが、韓国料理のレストランやおしゃれなカフェ、コスメやK-POPのグッズ、それに韓国人の占い師のブースまであって、さながら韓流テーマパークのよう。

 ここにはソウルの繁華街・明洞(ミョンドン)の流行がそのまま映し出されているとも言います。

 そのイケメン通りなのですが、とっても細くて長い路地なんです。車1台が通るのもやっと。

 そんな狭い道にたくさんの店が密集しているのでごちゃついた面白さがあるのですが、1本となりの路地もやっぱり同じで、狭くて長い。

 また大久保通りを挟んだ北側に行ってみても、細い道がまっすぐ視界の果てまで続いています。そんな道が何本も並んでいるのです。

 しかも、この南北を走る「ウナギの寝床」的な路地は、互いに行き来できる道がやけに少ないのです。となりの路地に行こうにも、東西を結ぶ路地がなかなか見つからず、いったん大久保通りまで出るしかなかったりします。

 どうってことない街並みに見えますが、実はけっこう特徴的な構造なのです。

通りのルーツは江戸時代の武家屋敷

 こんな街の原型ができたのは、遠く400年ほど前。戦国時代の末期でした。1590(天正18)年、豊臣秀吉の名を受けて、徳川家康が江戸に入ってきたことに、「イケメン通り」の源流があるのです。

 家康は武将ですから、軍勢を率いていました。その中に、伊賀出身の人々からなる火縄銃部隊の姿もありました。

 彼らは現在の新宿1~2丁目に陣を張り、江戸の防衛ラインの一角を担ったのですが、ふだん住んでいる屋敷はそこから1キロほど北。現在の新大久保のあたりでした。

狭くて細長いイケメン通りだが、そのルーツは江戸時代にさかのぼる(画像:室橋裕和)



 当時はまだのどかな農村だったという新大久保に、とつぜん武家屋敷が現れたのです。

 その造りはなんとも戦闘集団らしいものでした。東西を横切る大通りに面して、幅が狭く、奥行きが長い、まるで短冊のような屋敷を連ねたのです。

 その屋敷町の合間につくられていった路地も、屋敷と並んで並行しているわけですから南北に細長いものになります。そして、路地と路地を連絡する東西の道はほとんどありませんでした。

 これは全て、いざ敵が攻めてきたときに守りやすくするための工夫でした。仮に敵軍がどこかの路地に殺到しても、東西には行けないので、まっすぐ進むしかありません。防御する側としては潜入者の動きを察知でき、迎撃しやすいのです。

 この武家屋敷の地割りが、今もかなりの部分そのまま残っています。東京大空襲で一帯は焼け野原になったのですが、区分けだけは引き継がれていきました。

 戦後になって東西を結ぶ路地や公園もいくつか造られましたが、それでも基本的には、新大久保の路地は400年前の姿をとどめています。イケメン通りもそのひとつです。

ライブチケットが当たる?と評判の神社も

 この火縄銃部隊は「鉄砲同心百人」と呼ばれていました。彼らが住んでいたことから、いつしかこのあたりは「百人町」と呼ばれるようになり、現在までそのまま地名が使われています。

 イケメン通りの西側、JR新大久保駅がある場所は、百人町1丁目になります。

 その駅のすぐ西には皆中稲荷神社がありますが、ここにはコンサートにちなんだ絵馬がどっさりと飾られています。この神社で参拝すると「ライブのチケットが当たる」「〝神席〟がゲットできる」と、アイドルファン、K-POPファンの間では評判なんです。

イケメン通りの細長さは、人が少ない早朝だとはっきりわかる(画像:室橋裕和)



 しかし江戸時代、鉄砲同心百人たちにとっては「参拝すると銃の腕前が上がる」と人気の神社でした。部隊の中のある兵士の夢に神社が出てきてからというもの、彼は訓練のたびに的を射抜くようになったことがきっかけなのだとか。

 そこから「皆中(みなあたる)」稲荷神社と呼ばれるようになったそうです。やがて「皆中」は音読みの「かいちゅう」になりました。

 一時期は「宝くじが当たる」と噂を呼びましたが、いまは韓流ファンのコンサート当選祈願でいっぱいです。

なぜイケメン通りという名前になったのか

 そんな韓流ファンが新大久保に急増したきっかけは、2003(平成15)年に放映が始まったドラマ「冬のソナタ」でした。在日韓国人の小さなコミュニティがあるに過ぎなかった街に、ドラマを機に韓国のレストランやショップが激増していきます。

 やがて職安通りは次々と韓流の店になり、北の大久保通りにも進出。しかし、このふたつの大通りは当然、地価が高いわけです。

 そのため資金力のある企業が押さえていったのですが、負けじと小さな会社も新大久保になだれ込んでいきます。日本留学の経験者が多かったともいわれますが、彼らは比較的地価の安い路地に店を構えるようになります。

 百人隊が残した区割りの中に入り込んでいったのです。だから自然と小さな店が密集する路地になっていきます。

イケメン通りとは別の路地。新大久保ではこうした細長い道がいくつも連なる(画像:室橋裕和)



 そんな店が最も固まっていたのは、西大久保公園の1本東の路地でした。競争は激しくなるばかり。そこで少しでも韓流ファンの日本人女性をつかもうと、美男子の韓国人スタッフを配して接客する店が増えていき、やがて「イケメン通り」と呼ばれるようになった、といいます。

 今ではスタッフ全員が必ずイケメン、というわけではないようですが、通りの名前はずいぶんと定着しました。ずっかりコリアンタウンの中心地となっていますが、その源流は江戸時代にあるのです。

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