韓流の聖地・新大久保「イケメン通り」が南北に細長くなっているワケ

韓流ブームの聖地といわれる東京・新大久保。中でも「イケメン通り」と呼ばれる路地には、若い女性たちで賑わっています。それにしても妙に細いこの通り、なぜこのような形になったのでしょう? 名前の由来は? アジア専門ライターの室橋裕和さんが解説します。


通りのルーツは江戸時代の武家屋敷

 こんな街の原型ができたのは、遠く400年ほど前。戦国時代の末期でした。1590(天正18)年、豊臣秀吉の名を受けて、徳川家康が江戸に入ってきたことに、「イケメン通り」の源流があるのです。

 家康は武将ですから、軍勢を率いていました。その中に、伊賀出身の人々からなる火縄銃部隊の姿もありました。

 彼らは現在の新宿1~2丁目に陣を張り、江戸の防衛ラインの一角を担ったのですが、ふだん住んでいる屋敷はそこから1キロほど北。現在の新大久保のあたりでした。

狭くて細長いイケメン通りだが、そのルーツは江戸時代にさかのぼる(画像:室橋裕和)

 当時はまだのどかな農村だったという新大久保に、とつぜん武家屋敷が現れたのです。

 その造りはなんとも戦闘集団らしいものでした。東西を横切る大通りに面して、幅が狭く、奥行きが長い、まるで短冊のような屋敷を連ねたのです。

 その屋敷町の合間につくられていった路地も、屋敷と並んで並行しているわけですから南北に細長いものになります。そして、路地と路地を連絡する東西の道はほとんどありませんでした。

 これは全て、いざ敵が攻めてきたときに守りやすくするための工夫でした。仮に敵軍がどこかの路地に殺到しても、東西には行けないので、まっすぐ進むしかありません。防御する側としては潜入者の動きを察知でき、迎撃しやすいのです。

 この武家屋敷の地割りが、今もかなりの部分そのまま残っています。東京大空襲で一帯は焼け野原になったのですが、区分けだけは引き継がれていきました。

 戦後になって東西を結ぶ路地や公園もいくつか造られましたが、それでも基本的には、新大久保の路地は400年前の姿をとどめています。イケメン通りもそのひとつです。

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【地図】「イケメン通り」細長~いカタチを見る(4枚)

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