CM「まず~い、もう一杯」で話題になった青汁 実は戦後間もなく誕生していた【連載】アタマで食べる東京フード(8)

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CM「まず~い、もう一杯」で話題になった青汁 実は戦後間もなく誕生していた【連載】アタマで食べる東京フード(8)

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畑中三応子

食文化研究家・料理編集者

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味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。

始まりは1943年、発案者は京大卒の博士

 中央区銀座1丁目のガス灯通り(中央通りより1本有楽町寄りの通り)を歩いていたら、レンガ造り風の昭和レトロな建物が目にとまりました。

 ちょっと雰囲気がいいので近づいて看板を見てみると、そこには「遠藤青汁友の会東京営業所 青汁サービススタンド」の文字が。なんと、青汁元祖の店ではありませんか!

 いまでは健康食品として不動の地位を獲得している青汁、テレビCM「まず~い、もう一杯」で有名になった商品が先駆けだと思っている人が多いかもしれません。

 しかし、違うんです。青汁は太平洋戦争中の厳しい食料難から生まれ、戦争に負けてまだまだ貧しかった頃に完成し、日本人を元気づけた戦後の健康ドリンク第1号なのです。

平成初期のテレビCMで知名度が広がった青汁。しかしその歴史は想像より長い(画像:写真AC)



 考案したのは、京都大学医学部卒の遠藤仁郎(にろう)博士。ときは1943(昭和18)年、戦局が悪化し、配給食料は1本の大根を3世帯で分けるような状況でした。

 それでは到底生きていけません。どうしたら栄養が取れるか、ひたすら思案する日が続いたある朝、名案がひらめきました。

「ある、ある! 葉っぱだ。草や葉っぱならいくらでもあるじゃないか」

 その日から遠藤さん一家は手に入る葉はなんでも拾い集めました。

 と、ここまではだれもが思いつきそうで、実際に戦中戦後は山野草の利用が奨励されましたが、さすが科学者。葉を熱湯に浸してから乾燥させ、石うすで粉にして水に溶かして飲んだのです。

当初の発音は「あおじる」ではなく……

 味はともかく、なにより腹がふくれ、体調がよくなりました。「青汁」と名づけたのは、妻のヒナ子さん。当初の発音は「あおじる」ではなく、「あおしる」でした。

 めざましい成果は、遠藤さんにかねて抱いていた疑問を解くヒントを与えました。

 近代栄養学はカロリーとたんぱく質を重視し、たくさん取れと提唱する。一方で、昔から粗食小食は長寿のもとといわれている。この矛盾を解消するのが、ビタミンやミネラルが豊富なだけでなく、たんぱく質も多く含む緑の葉っぱなのではないか、と。

 翌1944(昭和19)年、妻が腎臓炎に、息子が肺炎になったとき、毎日欠かさずコップに1~2杯飲むうち完治。戦争末期に遠藤さんが召集され、平均年齢42歳という「老人部隊」に配属されたときも、駐屯した山中で青汁を作って部下に飲ませたところ、効果を上げたそうです。

京橋寄りの銀座ガス灯通り沿いに、35年の歴史を刻む青汁スタンド(画像:畑中三応子)



 敗戦後に赴任した岡山県の倉敷中央病院では病院食に取り入れ、栄養改善に役立てました。

 こうした積み重ねで、緑の葉っぱは健康効果が高い「完全食」であること、大量に摂るには液状が最適であることを確信した遠藤さんは、1949年に『青汁療法』(人間医学社)を出版します。

 当初はいろんな植物の葉っぱを使っていましたが、栄養成分がとくにすぐれ、1年中栽培ができ、収穫量が多く、味がよいなどの点で、青汁にもっとも適しているのはケール(結球しないキャベツの一種)だと結論。

 苦心のすえアメリカから種子を手に入れて、無農薬・無化学肥料の大量栽培に成功しました。

 目下、「野菜の王様」「食べる美容液」などと呼ばれ、人気急上昇中のケールに、そんな早い時期から注目した先見の明には感動します。

「青汁教祖」97歳まで啓蒙活動に勤しむ

 1954(昭和29)年に完成したケール100%の青汁を「遠藤青汁」と名づけて普及会を発足。次第に全国に広がっていって、1961年に出版した『青汁の効用』(主婦の友社)はベストセラーになり、遠藤さんは「青汁教祖」と呼ばれて97歳で亡くなるまで啓蒙活動を続けました。

『青汁の効用』の口絵写真「これがケールです」(画像:畑中三応子)



 遠藤さんの素晴らしかったのは、派手な宣伝は禁じ、青汁からの報酬をいっさい受け取らなかったこと。また、京大医学部教授就任の誘いを二度も断り、地域医療に専心したこと。

 敗戦の夜に「日本再建の道は、全国民の真の健康なくしてはありえない」と誓ったという、まさに「医は仁術」の見本のような人でした。

 以上の青汁誕生秘話はよく知っていましたが、現物が銀座という一等地で飲めるのは驚きでした。

 遠藤青汁の本拠地は倉敷で、銀座青汁スタンドは1985(昭和60)年の開設。愛好者は多いようで、客は途切れません。東京ではもう1軒、渋谷の宮益坂にもあり、そちらは2012年の開設です。

 現在、青汁のほとんどは水で溶かす粉末製品ですが、青汁スタンドでは搾りたての生が飲めるのがうれしい。季節によって味がかわり、夏は苦みが強く、冬はケール本来の甘みが感じられます。

 混じりけのない純粋な味で、飲み終わるとすぐ体がきれいになったような気分になるから不思議。

 そんな即効力があるはずはないし、継続しなければ効果は得られないとわかっていながら、一時の錯覚でも「健康」という夢を見せてくれるのが健康食品の力。とりわけ健康ドリンクは、急速に体にしみわたる実感を得やすいのではないでしょうか。

そもそも日本人は健康ドリンクが大好き

 そもそも日本人は歴史的に見て、健康ドリンクが大好きです。

 青汁のあとも、「ハウザー食」、アンプル入りの栄養ドリンク、紅茶キノコ、豆乳……と、現在にいたるまで数多くのブームが起こりました。ハウザー食は、いまでいえばグリーンスムージーのような飲物です。

 青汁が戦後初の健康ドリンクなら、日本初の清涼飲料水は、幕末に黒船によって伝えられた「レモネード」です。ビタミンCの補給ができて壊血病の予防ができることから、遠洋航海の必需品でした。

 当初は「レモン水」と呼ばれ、普及は早く、すでに明治前期には東京のいたるところで飲めたそうです。

 レモネードを炭酸入りの水で作ったのが「ラムネ」で、コレラが大流行した1886(明治19)年の夏、「ラムネを飲むとコレラにならない」といううわさが広まって爆発的に売れたのをきっかけに、一気に大衆化しました。

渋谷ストリーム1階にあるレモネード専門店「レモネード バイ レモニカ」(画像:畑中三応子)



 あれほど世間を騒がせたタピオカブームも、すっかりおさまりました。次に流行すると目されているものひとつが、レモネード。SNS映えがすること以上に、ビタミンCの美容効果とクエン酸の疲労回復効果が注目されています。

 はたして、新たなブームとなるでしょうか?

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