ボートレースで有名 大田区「平和島」の全然平和じゃなかった過去と教訓

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ボートレースで有名 大田区「平和島」の全然平和じゃなかった過去と教訓

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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ボートレース平和島で競艇ファンにおなじみの平和島。そんな平和島ですが、なぜ「平和」という名前が付いているのでしょうか。旅行ジャーナリストの内田宗治さんが解説します。

ボートレースで有名な平和島

 地名にはその語源を知りたくなるものがありますが、大田区の「平和島」もそのひとつではないでしょうか。

 京急平和島駅やボートレース平和島などとして、その名はよく知られています。

 天然温泉平和島やボウリング場、映画館、アスレチック、ドン・キホーテなどが入る複合型アミューズメント施設の「BIG FUN平和島」(旧名レジャーランド平和島)に行ったことがある人もいるでしょう。

BIG FUN平和島。ボートレース平和島のすぐ隣にある複合型アミューズメント施設。2020年7月撮影(画像:内田宗治)



 住所地名としても平和島1丁目から6丁目まで存在します。

 平和が付く地名で全国的に有名なものとして、広島市の平和大通りが挙げられます。

 平和大通りは、原爆爆心地を通る道路を戦後整備した際に名付けられた通りで、惨劇を二度と起こさないように、平和を切に願って命名されたものです。

 大田区の平和島にも、平和の尊さをかみしめたくなる歴史が秘められています。

かつては潮干狩りの地として知られた

 京急線青物横丁駅から平和島駅にかけて、昭和の初期くらいまで線路の100mほど東は海でした。

 線路と海岸線との間には、江戸時代の街道である東海道がのびていました。ボートレース平和島や大井競馬場の地は、この時代、数百m沖合の海にあたります。

 昭和10年代の地図を見ると、現在の京急大森海岸駅付近の海岸から沖合200mくらいの所に、南北に細長い小さな島が埋め立てられてできています。陸地とは1本の木造の橋でつながっていました。

1946(昭和21)年頃の戦犯収容所付近。現在はこの空撮右端の先まで埋め立てにより陸地が続いている(画像:国土地理院ウェブサイトより文字乗せ加工)

 場所はちょうど現在ボートレース平和島の観客スタンドがあるあたりです。島の大きさもこの観客スタンドより少し大きい程度です。

 島への橋が架かる海岸周辺(現在の大森海岸駅から平和島駅付近)は、古くから潮干狩りの地として知られていました。

 明治半ばに海水浴場ができ、明治後期から大正前期にかけて夏季は特ににぎわったといいます。

戦後、捕虜収容所は戦犯収容所に

 昭和に入り、そうした土地周辺にも、東京市によって埋め立てが始まりました。

 太平洋戦争により埋め立て工事は一時中断、こぢんまりとした上記の島が現れた形となり、そこに大森捕虜収容所がつくられました。

 日本軍により捕らえられた米国軍人などは、まさに島流しにあったようなこの土地に押し込められたわけです。太平洋戦争末期、米軍は同胞のいるこの付近を避けて空襲を行ったと言われています。

 捕虜収容所は戦後、一転して戦争犯罪容疑者の日本人が入れられる戦犯収容所(通称大森プリズン)となりました。

ボートレース平和島。ちょうどこのあたりに戦犯収容所があった。2020年7月撮影(画像:内田宗治)



 開戦時の首相兼陸軍大臣・東条英機、元海軍大臣・嶋田繁太郎、元陸軍大将・土肥原賢二、元商工大臣・岸信介(後に首相)らA級戦犯容疑者は、1945(昭和20)年10月から巣鴨プリズンに移送されるまでの約2か月、ここに収容されていました。

記録に残された大森プリズンの記憶

 C級戦犯容疑で同地に収容された飛田時雄は、『C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン』で、大森プリズンでの様子を活写しています。

 当初は誰もが南京虫(ナンキンムシ)に体じゅう刺され、ほとんど眠れなかったこと、元陸軍中将・本間雅晴が、戦前この収容所に勤務していた飛田に「(米国軍人捕虜をここに入れていたとき)なんで君たちは南京虫を退治してやらなかったのだ」と憤まんをぶつけてきたこと、などが語られています。

 リーダーシップを発揮して米軍相手に待遇改善を交渉する元海軍大将、もはや上下関係が消滅しているのに尊大な態度を取る元高官など、人間模様も興味深く延べられています。

『C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン』(画像:草思社)

 飛田は、ここで足元がおぼつかない東条の入浴の介添えを頼まれます。

 東条は、首相時代とは別人にしか思えないほど威厳が消えうせていました。背中には拳銃で自決をはかった時の傷がまだ完治せず、少し化膿(かのう)しているように見えたといいます。

 飛田は、戦争を始めた張本人に対する怒りを抱いていましたが、痩せさらばえた背中を流している間、「すまん。ありがとう」と繰り返し礼を述べる東条に接しているうち、怒りが氷解していく気持ちをつづっています。

歴史でわかる平和の尊さ

 その後周辺も含めた埋め立てが進み、平和島競艇場(当時の名称は大森競走場)が1954(昭和29)年にオープン、近くに温泉会館、トラックターミナル、物流ビルなどができていきます。

 1967年に一帯の埋め立て地が大田区に編入され、平和島という地名が付けられました。同地の歴史を振り返ると平和の尊さが強く実感され、この地名が付けられたと思われます。

ボートレース平和島の南隣に広がる平和の森公園。2020年7月撮影(画像:内田宗治)

 なお、平和島の北側、大井競馬場がある周辺の住所地名は勝島(品川区)です。

 これは「競馬で(賭けに)勝つ」のを願っての命名ではもちろんなく、戦時中の1943(昭和18)年、前年に一部完成した埋め立て地に対して、「大東亜戦争の戦勝」を期して付けられたものです。

 ボートレースや競馬で知られる地には、意外な歴史が秘められていました。

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