東京から南へ420km いまだ蠢く海底火山「明神礁」と、70年前のある測量船の悲劇とは

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東京から南へ420km いまだ蠢く海底火山「明神礁」と、70年前のある測量船の悲劇とは

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大島とおる

離島ライター

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東京から南へ約420km。そこには海底火山「明神礁」があります。そんな明神礁の歴史とそれを取り巻く人間模様について、フリーライターの大島とおるさんが解説します。

広がる東京の面積

 東京都の面積は今後、増える可能性を秘めています。というのも火山活動が活発な島しょ部では、噴火によって新たな島ができる可能性があるためです。

 現在小笠原諸島の西之島は、その途上にあります。火山活動で島の面積が拡大したことで、2018年の国土地理院と海上保安庁による測量の結果、日本の領海は約4平方キロメートル増えました。

 2019年9月の『東京都広報』第1万6936号では「新たな土地の確認」として、小笠原村父島字西之島に面積2.28平方キロメートルの土地が増えたことを告示しています。

 現代は噴火で島が増えても「珍しい現象」として耳目を集める程度ですが、かつては違いました。

 世界には未知の土地があり、そこには一獲千金のチャンスが眠っている――。20世紀後半くらいまでは、世界のどこにでもそのようなことを考える人が多くいたのです。

 また、新興国でビジネスを行って一獲千金というのが現在の定番の「ドリーム」ですが、以前は未知の土地で何らかの産物を掘り出したり、作物を栽培したりしてもうけようというのが定番でした。

 そのようなドリームに日本が最後に涌(わ)いたのは1952(昭和27)年のことでした。

 この年の9月17日に静岡県焼津港の漁船・第十一明神丸は伊豆諸島の青ヶ島南方約47kmで海底火山の噴火を目撃します。翌日、海上保安庁の巡視船「しきね」も爆発を確認。この海底火山は第1発見した船にちなんで、明神礁(みょうじんしょう)と名付けられました。

 なお、明神礁は東京の南方420kmに位置しています。

激しい火山活動

 海底火山は現在、

・山体中央に7km × 9kmの「明神礁カルデラ」
・カルデラ内に中央火口丘である比高(ひこう。近接した2地点の高度差)約650mの「高根礁」
・カルデラ外輪山(外側の火口縁)北東縁上に後カルデラ火山の「明神礁」

を持つ複式火山であることがわかっています。

明神礁の火山活動。1952年9月23日撮影(画像:海上保安庁)



 外輪山にある「ベヨネース列岩」は海面上にありますが、ほかの部分がすべて海中です。また、明神礁は最浅水深50mの円錐形の山体で、1870~1970年までの100年間に11回の噴火を起こしています。

 明神礁の火山活動は、以前より知られていました。1946(昭和21)年2月に噴火したときも新島が出現し、その後海中に没しています。そして1952年の噴火では、再び新島が出現したことが確認されました。

 ようやく日本が敗戦から立ち直ろうとしていた時期にあって、新島の出現には期待が寄せられました(当時は「新領土」という表現がよく使われていました)。

 噴火のニュースが報じられたのは、前述のとおり1952年9月17日。その翌日18日に、当時の東京都通産局に書留郵便が届きます。

 小田原市の女性から送られた郵便には「ベヨネース列岩硫黄試掘権設定願」として地図が同封されていました。それを皮切りに、都内はもちろん、群馬県や秋田県、全国から「硫黄の採掘権」を求める手紙が東京都に殺到します。

「黄色いダイヤ」を巡ってひと騒動

 当初、噴火の報道は限られていましたが、この中には明神礁が盛んに硫黄を吹き上げているというものがありました。

 硫黄は当時、日本の強力な輸出品目だったマッチの原料。そして化学工業に欠かせない硫酸、黒色火薬や農薬、漂白剤など、さまざまな用途に欠かせないものだったのです(現在、硫黄は石油精製の過程で大量に生産できます)。

 しかし、当時はその技術がまだ普及していなかった時代。硫黄は当然採掘するもので、その価値は「黄色いダイヤ」といわれるほどでした。

火山の噴気孔などで生成する自然硫黄(画像:倉敷市)

 そのような状況だったため、海から硫黄が噴き出しているのは、さしずめ海に宝箱が投げ出されているようなものです。

 当時の鉱業法では硫黄試掘権の有効期限は6年、本格的な採掘は試掘権者優先とされていました。そして、試掘権は1分でも早く届けた者に与えることになっていたのです。

噴火の調査に向かった測量船が遭難

 当初の報道では、火山活動によって島が形成されているかどうかもわからない状況でした。にもかかわらず、われ先にと出願した人たちは「自分が試掘を願い出ている島はここだ」と地図を同封しました。

 何の記載もない地図の海上に丸や点、楕円(だえん)など「自分の考えた島」がそこには書かれており、付記された面積ももちろん適当な数値だったのです。

 結局、このときの噴火で島は9日間誕生しただけで、再び海中に沈みました。それでも、将来は島になるかもしれないと採掘権を得ることを期待した人もいるようですが、東京都は地図の不備を理由に許可を出しませんでした。

 1952年の明神礁の噴火で起こったのが、海上保安庁の測量船「第五海洋丸」の遭難です。

 噴火の報を受けて海上保安庁は東北大学理学部教授でサンゴ礁研究の第一人者である田山利三郎測量課長をはじめ、中宮俊海象課長のほか、海上保安庁水路部からえり抜いた9人の調査団を派遣します。

海上に姿を現した時の明神礁。1952年撮影



 出発にあたって一行は「明神礁に一番乗りして溶岩、硫黄、軽石を採取してお土産にする」「意外な発見があるかもしれぬ」と語っていたといいます。この調査は学会からも期待をかけられていました。

 しかし現地に赴いた第五海洋丸は、そのまま消息を絶ってしまいます。

 捜索の結果、船体の断片などが見つかったため、噴火に巻き込まれたことがわかりましたが、どうして巻き込まれてしまったのかはいまだに明らかになっていません。

悲劇に乗る者、悲劇に学ぶ者

 調査団を含めて乗員31人が殉職したことは大きなニュースとなりました。

 これを慰霊する意味で田端義夫が歌う『恨みは深し明神礁』という歌も作られています。当時は、大きな事件や事故があるとすぐに便乗した歌謡曲をつくるのがレコード会社のビジネスでした。

 今では考えられないくらいに不謹慎ですが、当時では常識。よっぽどやっつけで「溶岩眉を焦がすとも 君らは何か屈すべき」とむちゃな歌詞が歌われています。

明神礁の火山活動。1952年9月23日撮影(画像:海上保安庁)



 この第五海洋丸の悲劇は、その後の火山観測に一石を投じました。

 海上保安庁では、レーダーなどの機材を用いた観測を実施するように。またヘリコプターと複数の観測船を用いて、立体的な観測を行い危険を回避するようになりました。

 31人の犠牲は無駄にはならず、その後の火山観測が成果をあげる礎となったのです。

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